瞻匐迦華(チャムパカ)
オガタマノキの花
さて太子は山中で縁覚となり、なかなかえらくなったと聞き、父王が大象に乗り、四兵に囲繞され、これを山中に見舞おうと出て行く途上、1貧人がこれに遭い、われも王も同じ人だが、こんなに変わりがあるものかと嘆くところへ、鹿が多く来た。王は太子よりも鹿を殺す方が面白いから、たちまち太子のことを第2にして、鹿を追いに行く。この間に、何とか縁覚に面謁しようと貧人が山に入って見ると、無数の賢聖が縁覚を囲み、曼陀羅華を振り撒き、縁覚の膝が埋もれるという大景気だ。貧人は、自分も何か供養したいと思い、近所から最上味の菴摩羅果(マンゴー)を持って来て、縁覚に奉る。「汝は貧乏だが、よく気の付く奴だ」と言って、その果実を食い、空中に飛び上がり、神変を現わしになった。貧人は大いに悦び、明日もまた供養しようと誓い帰る。
一方、聞軍王は鹿狩り最中、太子が縁覚となって、空中で芸当をやらかすを見、ハッと気が付き、鹿狩りを止めて来る途中、貧人に遭い、「コラ貧乏人」と頭から呼び付ける。貧人は、何と貧乏はせぬことじゃ、何の罪もなきに貧ゆえこんなに呼び捨てられると思うと、足が躓き、丸い石を蹴り倒す。その跡に1つの鉄甕があり、中に黄金が満ちていた、と来た。王は縁覚に面し、「明日わが斎食(ご馳走)を受けたまえ」と言うと、縁覚は「明日は貧人の供養を請ける約束がある」と言う。よって王は使いをやり、貧人に「日を繰り延ばせ」と言うも承知しない。王みずから貧人を訪ね、「汝は雪隠へ行って尻を拭く物もない赤貧じゃ、朕は灌頂大王である、何と小癪な、われと対抗して縁覚を馳走するような資本があるなら、せめて100両の金を出して見よ、お定りの金2両など洒落て落て陰嚢などでは受け取らぬ」と意気巻くと、貧人は「まず静かに御覧なさい」と例の掘り出し物の鉄甕を見せ、傾けて降り出すと、出るは出るはというと、また俗吏等は、何が出たんだ、猥褻罪の方じゃないか、いえ罰金でもせびり取り高名せんと待ち構えるだろうが、南方縁覚先生、去年の「人魚の話」で大分懲りておる。ちょうど1周忌に当たっておる時節ゆえ、なかなか再び春画文句など『新報』へ書く気遣いはない。すなわち金がおびただしく、ドクドクニューニューウウウウウウウンというほど出たのだ。あまり出したから、がっかり疲れながら見ると、金が積もった一方から、他の一方に誰がおるか隔てて見えぬほど積もった。
王は大いに胆を消し、降参して去る。翌日、件の金でいろいろの騒走を拵え、縁覚を供養し、縁覚は大悦びで空中に飛び上がり、達磨大師座禅の形など種々の足芸を演じになった。かの人はこれを見て発願し、われ願わくは、今わが散じ奉った蓮花の代りに、世々瞻匐迦華(チャムパカ)の天紫金のような色があるのを得ん、またわが今供養し奉る瓦器の代わりに、世々常に金盤に天食を満盛し、百千人食うも尽きざるを得ん、と請う。すなわちその通り、死後再び金燿童子と生まれ、身辺に常に紫金色のチャムパカが絶えず、また百千人に食わせても尽きぬ金盤を得て大富となった、とある。
しかし、時節も変わって来たから、今時そんな花ができても、珍しがって来客ばかりで、見捨てにされたら茶を出すだけこっちの大損、また百千人食っても尽きぬ盤など手に入ったと聞いたら、米が高いから毎日田辺じゅうから押しかけて来る。ここは一つ考え物だ。三馬の『浮世風呂」に、富人が寄って妙な趣向を競う内に、一人は新しい灰吹の中へ牡蠣をトロロで雑ぜた奴を入れ、一人は新しい糞器(おかわ)へ卵黄と海胆を混じて入れ、酒の肴に持ち出したら、旨いと知りながら誰も箸も触れなんだ、とある。米高で本当に飢えた者は、どんな外見の悪いものも穢なくさえなければ食うは知れたことである。南方縁覚に何でもいいから、出してほしいほどの馳走に、酒を添えて振る舞え。そのような時は、鱷腹やった上、後世では宛てにならぬから、未来と言わず現世で、目前、外見が悪くても、実際は舌を鼓たにゃならぬほど旨い御馳走を、酒の勢いで千万倍にして、嘔吐について貧人どもに食わせやるとは、弘誓のほど頼もしきかなじゃ。
何に致せ、チャムパカは仏経でよほど褒めた物だが、日本でちょっと見られないから、それと近縁の神木オガタマの木は大事に保存すべきことだ。たいし七川の平井で、件のオガタマの木を晴明が手植えしたというのも、例の似せ博士等は「晴明が熊野へ来たとは歴史に見えない、嘘に相違ない」など言うだろうが、すべて種子のない嘘はないもので、『古事談』第六に「晴明は俗人ながら那智千日の行人である、毎日1時ずつ滝に打たれた、前生もやんごとなき大峰行人である、云々」とある。この書は鎌倉将軍の初めごろに顕季卿が書いたもので、『大日本史』などにも多く引いてある。また『元亨釈書』に「花山法皇が那智山にいたとき、天狗が多く祟りをなす、よって安倍晴明にこれを祭らせる、晴明は衆魔を呪し岩屋に狩り籠めて収める、那智の行者に懈怠があらば天狗が出て害をなす」と。『紀伊続風土記』に「晴明の社は那智神社の東3町ばかりにある、いま社はない、晴明橋という橋がある」とあるから、晴明も那智へ参ったことがあるのだろう。たとえ七川へ来なくとも、そのころ晴明の流れを汲む修験師などが平井へ来て、かの木を手植えしたのであろう。
【追加】
支那北涼の世のころ翻訳した『大方広十輪経』巻三に、世尊が偈を説いていわく、「チャムパカは萎れても、もろもろの他の花に勝れっている。破戒の諸比丘がなお諸外道に勝れるがごとし」。これは腐っても鋼という譬えに同じ。また『一切如来秘密経』に、チャムパカは吉祥である、あまねく三族において供養せよ、とある。ちょうど日本で菊や梅をめでたい花とするようなことである。