チューリッヒ市の伝説2
Garter Snake / Gerald Yuvallos
この話の前半部分は鬻子(いくし)(春秋の楚王の先祖で、夏の禹王の姉であったという)の書物に見える。すなわち、夏の禹王は五声を判して天下を治めたというので、王宮の入口に鐘、磬(※けい:中国の古代の打楽器※)、鐸、鼓、フリツヅミ(西洋にないが古ユダヤ人が用いた tympanon に一番近い ※図あり。図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』 (河出文庫) 139頁※)の5つの楽器を備え、それぞれ用事にしたがって特別の楽音をたたかせた。このようにして遠慮なく王を見て小言を述べ、異なる意見を言わせたのだ。
『管子』には禹は王宮前に鐘をかけ、免訴あるものにこれをたたかせた、とある。『呂覧』には、堯帝が諫鼓を王宮前に立て忠告を進言しようとする者にこれをたたかせた、とある。日本では、孝徳帝大化2年の詔に、宮前に鐘をかけて忠告をしようとする者にたたかせた、とある。
支那書には実際に用いたことはあまり見えないが,9世紀(唐末)に支那に遊んだアラビア人の紀行や明のころに支那に遊んだ宣教師の書物を見ると、実際このような鐘を備えてあったらしい(アラビア人の紀行には、その鐘をダラと呼ぶとある。これはドラで、日本で銅鑼をドラと呼ぶのは唐のころの通用の音という証拠になる。車などもシャと読ませている。ゆえに今の北京音ツンロ、シェなどよりは、日本に伝わる漢呉音の方がずっと古く正しい発音とわかる)。この支那の諫鼓や鐘のことを西洋へ伝え、それが変化したのだ。
後半の、ある物(玉なり何なり)を蛇が礼に持って来るということは、支那、インド共にそういう話がある。アラビアにもあると思う。もっとも名高いのは、『荘子』に見えた隋侯の珠で(多く費やし少なく儲けることを、隋侯の珠を千匹の雀に投げうつという)、そのわけは晋のころ出来た『捜神記』に出ている。
隋侯が斉国に行く途中、熱砂上に小蛇が頭から血を出して苦しむのを憐れみ水中に入れてやると、2月経て帰途そこを過ぎる際、小児が現われ珠をくれる。小児から物をもらうのは大人げないと辞して去ると、その夜また夢に小児が現われ、「われは前々月救い出された小蛇である、ぜひこの珠をお受けください」といって珠を残して去る。目が覚めると枕元にその珠があり,希有の明珠である。持ち帰り王に奉って、それに対する下賜金で一生安楽に暮らした、とある。
最後の、ある物(玉など)を持つと人に愛せられ。その玉を他人に伝えると愛もその他人に移るという話は、ずいぶんありそうなことだが、今だひとつも見つけられません。ただし、ある物をもつと人に嫌われ、その物を他人に移すとその人がまた嫌われる話は、『宋書』にある。休祐という人は毎度宋の明帝の前で失言して怒られる。不審に思っていると○道愍という笏の相師が、その笏を見て、この笏は貴人が持つ物ながらこの笏を持つ人は必ず帝王に嫌われる、といった。
休祐が感心して、○彦回は非常に厳格な人なので試しにその笏を換えてもらうと、さしも厳格な彦回が笏を換えて数日にもならないうちに帝の前で失言して大いに不快を招いたところへ休祐が来て、じつは試しにこの笏を取り替えたからと説明したので帝の怒りも解けた、とある。
この論を書くのに37部の書物を調べ,ずいぶん骨が折れ申しました。