神社合祀反対運動の終結
しかし、世には奇特な人もあるもので、小島久太氏が拙書を『山岳』へ出したのを読み、日本博物学同士会幹事とか、江原竹二氏(武州南埼玉郡大山村の人)、本県有田郡の素封家で東京市選出貴族院浜口吉右衛門氏に件の拙書を示し、貴族院で議案を提出させてみようと申すようなことを申してこられました。
その他にも県内諸処に同意の人が多くなり、いろいろ申して来ますが、小生は右の事情で大いに力も衰え、長々の苦労でくたびれたから、集めた材料を同士の人に譲与し、自分は引退いたします。
ゆえに今後は県下で合祀反対の大将は毛利氏で、
諸市町郡の新聞記者、政治家がこれに同意し、中村代議士も今月中には帰県し、相変わらず議論を続けることと存じます。
大和国吉野郡長はひじょうな敬神家で、白井氏らの論を愛読し、続々復社または合祀中止に勉めているとのこと。十津川の千葉久常という勢力家から昨日聞き及ぶ。
毛利氏は県会議員になり、ただ今和歌山にいて、なかなかの勢いで、第一に議員及び官吏の旅行手当を削減し、次に大水の防ぎに県有林というものを諸郡の水源近くに設け、濫伐を防ぐ議案を通過させました。
小生は人と争うのに真っ向勝負のみを心がけ、計略事はまことに下手である。度々妻にすらやりこめられ、閉口することが多い。
『呉越春秋』か『越絶書』に、
無双の勇者(名を専諸といったか)が喧嘩に出かけるところを、妻に叱られ引き返す。伍子胥がその怯んだのを笑ったが、「何ぞそれ然らん。それ1人に屈するは1000人に伸ぶ」と言った、とある。
『五雑組』に、鴻門のことを論じて、項羽が樊噌に負けたのを「勇にして怯むことができる」と誉めたことがある、と自分勝手な好例を引き散らしておきます。
右に述べた通り、小生は合祀反対の意見は撤回しないが、真正面に立って攻難することは止め、またましてや外人などにこのようなことの助言を頼むことは全く止めますので、恥ありてかついたる者と御憫笑の上、白井博士においても怒って移さず旧悪を懐わざるの情をもって、小生の心得違いを寛大な心でお許しくださるよう、折りをもって御取り持ちくださいませ。
確かに小生は別に氏に対して破廉恥、人非人の言行を仕向けたのではなく、孤立勢い極まって狂奔しようとしたことなので、氏もその辺は十分に察して御許しくださることと存じ上げ奉ります。
那智の伐木禁止、神島は保安林に編入、東西牟婁郡に残った神社若干が(合祀請願書に調印し許可を得ながら小生が力を尽くして合祀しなかったもの)いよいよ月次幣帛を受けることとなった。これらが少々ながら微力が届いたものである。
エスソニアの『カレビペグ』と申す長物語に、前後不顧の勇士がずいぶん思うままに振る舞っていたが、川を渡ろうとして刀を落とし誤って足を切る。それから万事が不運に終わるところがある。
小生も近野村一条まではずいぶんうまくやったが、 近野一条がすなわち川に落とした刀であった。この一事に敗亡すれば小生のみか保勝会の鼎重を田舎村夫に知られるわけと(※?※)、ことに力を入れ過ぎてかえって同意の人士の機嫌を損ねたのは仕方ないことだが、花に千日の紅なく、人に百日の幸いなし、「人生は思うようにいかないものが十のうち常に八、九である」、大いに嘆く他ない。
右申し上げます。早々敬具。