(その3)
さて一年の計は新年にありで、鼠害を減ずるため、支那で七日とか十日とかの夜、鼠の名を呼ばず馳走し、日本でも貴族の奥向きで三ヶ日間ネズミと呼ばずヨメと替え名したのだ。
明暦二年板貞室の『玉海集』に「ヨメをとりたる宿の賑ひ」「小鼠をくはへた小猫ほめ立てゝ 貞徳」、加藤雀庵はヨメは其角の句に見えたヨメが君の略で、『定頼卿家集』に、尼上の蓮の数珠を鼠の食いたりけるを見て「よめのこの蓮の玉を食ひけるは、罪失はむとや思ふらむ」、このヨメノコからヨメガ君が出ただろう、ヨメは夜目なるべしと言った(『囀り草』虫の夢の巻)。
まあそんな事であろう。かく当夜謹慎して鼠を饗するは年中の鼠害をなるべく差し控えてもらう心から出たのを、鼠はその頃交わるもの故、鼠の婚儀を祝うものと心得るに及び、和漢ともに鼠の嫁入りと称うるに至ったのだ。
今村鞆君の『朝鮮風俗集』に、正月の一番初めの子の日、農民争うて田野に出で、野原を燃す。これを鼠火戯という。かくすればこの歳野草繁茂すという。鼠が牧畜に必要な草や人間大事の穀物を損ずるは夥しいものあり。欧州の尾の短い鼠ハムスターというは、秋になると穀豆を掠めて両頬に含み両手で堅く押し付けてはまた含み込み、巣に返って吐き出し積んで冬蟄する間の備えとす。一匹で穀六十ポンド、またハンドレッド・ウェートの豆を備えたもあるという(ウッドの『動物図譜』一)。
ピンカートンの『海陸紀行全集』一に収めたマーチンの『蘇格蘭西島記』に、ロナ島へどこからとも知れず鼠群れ来って島中の穀を食い尽した上、泣き面に蜂とか、水夫が上陸してただ一疋あった牛を掠め去ったから、全く食物なくなったのに一年間糧船来らず、全島の民が死に尽した。
またロージル村に夥しく鼠生じて、穀物、牛乳、牛酪、乾酪口当り次第平らげたので、住民途方に暮れ猫を多く育てたが、猫一疋に鼠二十疋という多数の敵を持ちあぐんで気絶せんばかりに弱り込んだ。ある人奇策を考え付いて、猫が一疋の鼠と闘うごとに牛乳を暖めて飲ました。すると猫大いに力附いてついに一疋余さず平らげてしまったと記す。
日本にも永正元年武州に鼠多く出て、昼、孕み女を食い殺し、その処の時の食物を食い猫を鼠皆々食い殺す(『甲斐国妙法寺記』)。『猫の草紙』に「その中に分別顔する鼠云々、きっと案じ出したる事あり、このほど聞き及びしは近江国御検地ありしかば免合に付きて百姓稲を刈らぬ由。たしかに聞き届くるなり、まずまず冬中は罷り越し稲の下に女子どもを屈ませ云々」、これだけでは野鼠冬中刈り残しの稲ばかり害するようだが、『郷土研究』二巻八号矢野宗幹氏の説を読むになかなかそんな事で止まらず、伊豆国など毎度これがために草山は禿げになって春夏も冬に同じく、村々では茅で屋根をふく事ならず、牛の飼草もなく、草を食い尽して後は材木を荒らし、人民をして造林は不安心な物てふ念を抱かせ、その害いうべからず。
近頃毛皮のために鼬を盛んに買い入れ殺すより野鼠かくまで殖えただろうと言われた。二巻九号また三宅島に多く犬を飼い出したため山猫減じ、野鼠の害多くなったと記す。朝鮮でも野鼠殖えて草を荒らす予防に、正月上子の日その蟄伏した処を焼いて野草の繁茂を謀ったので、支那で一月七日に家鼠を饗するを虫焼きと呼ぶも、本この日野鼠を焼き立てる行事があった遺風だろう。
蝙蝠は獣だが翅ある故古人が虫また鳥と思うたように、欧州の古書(エールスの旧伝『マビノギヨン』など)に鼠を爬虫と呼んだが多い。脚低く尾を曳きて潜み走る体が犬猫牛馬よりもトカゲ、ヤモリなどに近いからの事で、支那には古く『爾雅』に毛を被った点から獣としてあれど、歴代の本草多くこれを虫魚の部に入れた。それを『本草綱目』始めて獣部に収めた。本邦でも足利氏の中世の編『下学集』には鼠は虫の総名と書いた。されば支那の虫焼きてふ虫は冬蟄する一切の虫やその卵を焼いたからの名だろうが、朝鮮同然鼠をも焼くつもりだったのだ。
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「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収