(その2)
大正十一年出板、永尾竜造君の『支那民俗誌』上に一月七日支那人が鼠の嫁入りを祝う事を載す。直隷の呉県では鼠娶婦。山東の臨邑県では鼠忌という。江南の懐寧県では、豆、粟、粳米等を炒って室隅に擲って鼠に食わしめ、炒雑虫(虫焼き)といい、この晩は鼠の事を一切口外せず、直隷永平府地方では、この夜鼠が集って宴会するから燈火を付けて邪魔しては年中祟らるといい、直隷の元氏県より陜西の高州辺へ掛けては、婦女鼠の妨げをせぬよう皆家を空しゅうして門の方に出づ。家にいて邪魔をすると仇討ちに衣類を噛られると恐れる。嫁入りの日取りは所に依って同じからず。山西の平遥県では十日に輿入れあり。その晩は麺で作った餅を垣根に置いてお祝いをする。陜西の岐山県では三十日の夜、燈火言語を禁じて鼠を自在ならしむという事だ。
日本には鼠の嫁入りの咄しはあれどこのような新年行事ありと聞かぬ。『嬉遊笑覧』一二上に「また鼠の嫁入りという事、『薬師通夜物語』(寛永二十年)、古えは鼠の嫁入りとて果報の物と世にいわれ云々、『狂歌咄』、古き歌に「嫁の子のこねらはいかになりぬらん、あな美はしとおもほゆるかな」、『物類称呼』に、鼠、関西にてヨメ、また嫁が君、上野にて夜の物、またヨメまたムスメなどいう、東国にもヨメと呼ぶ所多し、遠江国には年始にばかりヨメと呼ぶ。
其角が句に「明くる夜もほのかに嬉し嫁が君」。去来がいわく、除夜より元朝掛けて鼠の事を嫁が君というにや、本説は知れずとぞ、今按ずるに年の始めには万事祝詞を述べ侍る物にしあれば、寝起きといえる詞を忌み憚りてイネツム、イネアクルなど唱うる類あまたあり。鼠も寝のひびき侍れば、嫁が君と呼ぶにてやあらんといえり。この名あるより鼠の嫁入りという諺は出で来しなるべし。また鼠を夜の物、狐を夜の殿という、似たる名なり。思うに狐の嫁入りは鼠の後なるべし」と記す。
『抱朴子』内篇四に、山中寅日、自ら虞吏と称するは虎、当路者と称するは狼、卯日丈人と称するは兎、西王母と称するは鹿、子の日社君と称するは鼠、神人と称するは蝙蝠など多く例を挙げ、いずれもその物の名を知った人を害し能わずとある。これは十二支の異なる日ごとに、当日の十二禽の属たる三十六禽が化けに化けて自ら種々の名を称え行く偽号だ。
これに反しスウェーデンで牧女どもの言い伝えに、昔畜生皆言語した時、狼が「吾輩を狼と呼ぶな仇するぞ、汝の宝と呼べば仇せじ」と説いたとかで、今にその実名を呼ばず、黙った者、鼠色の足、金歯など唱え、熊を老人、祖父、十二人力、金足などと称う。また受苦週(耶蘇復活祭の前週)の間、鼠、蛇等有害動物の名を言わず、これを言わば年中その家にそんな物が群集すると伝う(一八七〇年板ロイドの『瑞典小農生活』二三〇頁、二五一頁)。
古エジプト人は箇人は魂、副魂、名、影、体の五つから成り、神も自分の名を呼んで初めて現われ得、鬼神各その名を秘し、人これを知らば神をしてその所願を成就せしめ得と信じ、章安と湛然の『大般涅槃経疏』二には、呪というはその実鬼神の名に過ぎず、その名を唱えらるると鬼神が害をなし得ぬとある。ちょうど夜這いに往って熊公じゃねえかと呼ばるると褌を捨てて敗亡するごとく、南無阿弥陀仏の大聖不動明王のと名号を唱えらるると、いかな悪人をも往生せしめ、難を救わにゃならぬ理窟だ。さればわが国史にも田道将軍の妻、形名君の妻と、夫の名のみ記して妻の名を欠き、中世、清少納言、相模、右近と父や夫や自分の官位で通って実名知れぬ才媛多い。
仏領コンゴに姉妹の名を言い中てて両人とも娶り得た噺あるごとく(一八九八年板デンネットの『フィオート民俗記』四章)、女の実名を知ったら、その女を靡け得という旧信から起ったので、親の付けた名をうっかり夫と憑む人のほかに知らさなんだからだ。『扶桑列女伝』に、名妓八千代、諱は尊子、勝山、諱は張子など記しあるも、遊女の本名を洩らすと、彼はわが妻になる約束ある者など言い掛くる者が出るから、尊者の忌名と等しく隠した故、諱と書いたのだ。西洋でも人の妻を呼ぶにその夫の氏名に夫人号を添え用い、よほど親しい中でなければ本名を問うを無礼とする。支那では天子の諱を隠す余り、どう読むか判らぬ新字を拵えたさえある(一八九五年板、コックスの『民俗学入門』五章。『郷土研究』一巻四二三頁拙文「呼名の霊」参照)。
動物が自分の名や人の言動を人同様に解すると信ずるは何処の俗間にも普通で、サラワクやマレイ半島には動物が面白い事をするを見ても笑うてはならぬ、笑えば天気荒れ出し大災禍到ると信ずる者あり(一九一三年板デ・ウィントの『サラワク住記』二七四頁、一九二三年板エヴァンスの『英領北婆能および巫来半島宗教俚俗および風習の研究』二七一頁)。わが国でも鼠落しを掛くるに小声でその事を話し、鼠に聞えたと思えば今日はやめだなど大音で言う(『郷土研究』一巻六六八頁)。
back next
「鼠に関する民俗と信念」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収