犬に関する伝説(その5)

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     この話が移り変って『和漢三才図会』六九には、犬頭社は参河みかわ国上和田森崎にあり、社領四十三石、犬尾社は下和田にあり、天正三年中領主宇津左門五郎忠茂猟して山に入る、家に白犬ありて従い走り行く、一樹下に到り忠茂にわかに眠を催す、犬傍にありて衣の裾をくわえて引く、ややめてまたぬれば犬しきりに枕頭に吠ゆ。忠茂熟睡を妨ぐるを怒り腰刀を抜きて犬の頭を切るに、樹梢に飛んで大蛇の頭に咋い付く、主これを見て驚き蛇を切り裂いて家に還り、犬の忠情を感じ頭尾を両和田村に埋め、祠を立てこれを祭る。家康公聞きて甚だ感嘆す。かつ往々霊験あるを以て采地を賜う。けだし宇津氏は大久保一族の先祖なりと出し居る。

    今昔物語』二六に、参河国の郡司妻二人に養蚕をさせるに、本妻の蚕皆死んで儲けもなくなったので夫も寄り付かず、従者も逐電して淋しく暮す内、養いもせぬ蚕一つ桑の葉に付いて咋うを見付けて養う内、家に飼った白犬がその蚕を食うた。蚕一つすら養い得ぬ宿世すくせを哀しみ犬に向いて泣きいると、この犬鼻ひると二つの鼻孔より白糸二筋出る。それを引いて見ると陸続として絶えず、四、五千両巻きおわると犬は死んだ。これは、仏神が犬に化し、われを助くる事と思うて、屋後の桑木の下に埋めた。

    夫の郡司たまたまその門前を通り、家内の寂寞たる様子を憐み、入りて見れば妻一人多くの美しい糸を巻きいる。夫問うて委細を知り、かく神仏の助けるある人を疎外せしを悔い、本妻の方に留まって他の妻を顧みず、かの犬を埋めた桑の木にも繭を作り付けあるを取りて無類の糸を仕上げた。やがて国司を経て朝廷に奏し、かの郡司の子孫今にその業を伝えて犬頭という絶好の糸を蔵人所くろうどどころに納めて、天皇の御服に織ると見ゆ。すこぶる怪しい話だがとにかく三河に昔犬頭という好糸を産し、こんな伝説もあったので、犬頭社はもとその伝説の白犬をまつったのを後に大蛇一件を附会して犬尾社まで設けたのでなかろうか。

     犬が大蛇を殺して、主人を助けた話は、西洋にもある。ベーリング・グールドの『中世志怪』六章や、クラウストンの『俗談および稗史はいしの移動変遷』二巻一六六頁以下に詳論あり。今大要を受け売りと出掛ける。十三世紀の初めウェールスのルエリン公、その愛犬ゲラートをして自身不在ごとにその幼児を守らしめたが、一日外出して帰って見ると揺籃に児見えず。そこら血だらけで犬の口に血が附きいた。さてはわが子はこの犬にわれたと無明の業火直上三千丈、刀を抜いてやにわに犬を切り捨てた。ところが揺籃の後ろに児の啼き声がする。視ればわが子は念なくて、全く留守宅へ狼が推参して児を平らげんとする処をこの犬が咋い殺したと判った。公、大いに悔いて犬のために大きな碑を立て、これを埋めた地を犬の名に基づいてゲラートとづけたそうだ。

    中世欧州で大いに行われた教訓書『ゲスタ・ロマノルム』にはいわく、フォリクルスてふ武士妻と婢僕を惣伴そうづれで試合に出掛け、ただ一人の児を揺籃にれ愛する犬と鷹を留め置く。城辺に棲む蛇来て児をまんとすると、鷹、翅を鼓して犬を起し、犬、健闘して蛇を殺し地に伏してきずを舐る。所へ還った乳母は蒼皇そうこう犬が主人の児をったと誤解し、逐電の途上主人に遭ってその通り告げる。主人大いにいかって来り迎うる犬を斬り殺しくつがえった揺籃を視ると、児は無事で側に蛇殺されている。フォリクルス早まったと気付いても跡の祭り、槍を折り武道を捨て聖土を巡拝してまたまた還らなんだと。一三七四年筆する所、ペルシャの『シンジバッド』十七に述ぶる所もほぼ同前だが、これ犬の代りに猫としある。

     熊楠いわく、馬文耕の『近世江都著聞集』四に、京町三浦の傾城けいせい薄雲かわやへ往くごとに猫随い入る。その美容に見入りしならんとて打ち殺すべき談合しきりなる処に、一日かの妓用達しにくと猫例のごとく入らんとす。亭主脇差抜きてその首を打ち落すに、たちまち飛んで厠の下へもぐり行方知れず。尋ね見るに厠の下の隅に大蛇ありしに猫の首喰い付き殺しいた。全くこの蛇常に薄雲の用達す所見込みしを気遣うて猫がかの妓に附き添ったと知れ、薄雲流涕してその骸を西方寺に納めて猫塚を築いたとある。これらの話種々異態あれどもと仏説に出たのだ。

     『摩訶僧祇律』三にいわく、過去世に婆羅門あり銭財なき故、乞食して渡世す。その妻、子を産まず、家に那倶羅なくら虫ありて一子を生む。婆羅門これを自分の子のごとく愛し那倶羅の子もまた父のごとく彼を慕う。少時して妻一子を生む。夫いわく那倶羅虫が子を生んだはわが子生まるる前兆だったと。

    一日夫乞食に出るとて妻に向い、汝外出するなら必ず子を伴れて出よ、長居せずと速やかに帰れと命じた。さて妻が子に食を与え隣家へうすつきに往くとて、子を伴れ行くを忘れた。子の口が酥酪そらくにおうをぎ付けて、毒蛇来り殺しに掛かる。那倶羅の子我父母不在なるに蛇我弟を殺さんとするは忍ぶべからずとおもい、毒蛇を断って七つに分ち、その血を口に塗り門に立ちて父母に示し喜ばさんと待ちいた。

    婆羅門帰ってその妻家外にあるを見、かねおしえ置いたに何故子を伴れて出ぬぞといかる。門に入らんとして那倶羅子の唇に血着いたのを見、さてはこの物我らの不在に我児を※(「口+敢」、第3水準1-15-19)い殺したと合点し、やにわに杖で打ち殺し、門を入ればその児庭に坐し指を味おうて戯れおり、側に毒蛇七つに裂かれいる。この那倶羅子我児を救いしを我善くずに殺したと悔恨無涯で地に倒れた。時に空中に天ありを説いていわく、〈宜しく審諦に観察すべし、卒なる威怒を行うなかれ、善友恩愛離れ、枉害おうがい信に傷苦〉と。

    那倶羅(ナクラ)は先年ハブ蛇退治のため琉球へ輸入された英語でモングースてふイタチ様の獣で、蛇を見れば神速に働いて逃さずこれを殺す。その行動獣類よりも至ってトカゲに類す(ウッドの『博物図譜』一)。従って音訳に虫の字をえて那倶羅虫としたのだ。『善信経』には黒頭虫と訳し居る。

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    「犬に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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