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『常山紀談』にいわく、摂津半国の主松山新助が勇将中村新兵衛たびたびの手柄を顕わしければ、時の人これを槍中村と号し武者の棟梁とす。羽織は猩々緋、は唐冠金纓なり。敵これを見て、すわや例の猩々緋よ、唐冠よとていまだ戦わざる先に敗して敢えて向い近付く者なし、ある人強いて所望して中村これを与う。
その後戦場に臨み敵中村が羽織ととを見ず、故に競い掛かりて切り崩す、中村戈を振るって敵を殺す事あまたなれども中村を知らざれば敵恐れず、中村ついに戦歿す。依って曰く、敵を殺すの多きを以て勝つにあらず、威を耀かし気を奪い勢を撓ますの理を暁るべしと。
中村は近江国の人なり。一日に槍を合す事十七度、首四十一級を得たから世に槍中村と称えたという。それすらその人と知れぬ時は寄って懸って殺しおわる。由ってその人相応の飾りや肩書は必要と見える。この類の話し古くインドにもあった。『根本説一切有部毘奈耶破僧事』十八から十九巻に竟って、長々と出居る。なるべく短く述べるとこうだ。
過去世婆羅尼斯国の白膠香王隣国王の女を娶り、日初めて出づる時男子を生んだので日初と名づけ、成長して太子に立てた。王第一の妃を達摩と名づけたがこれも後に姙んだ。相師これを見て今度必ず男子が生まれる、それはきっと王を殺して自ら王となるはずといった。
白膠香王病で快復の見込みも絶ゆるに及び、自分死なば太子は必ず第一后達摩を殺すに相違ないと思うて、多くの財宝を宰牛と名づくる大臣に与え、よく達摩后を擁護して殺されぬようと頼んで死んだ。日初太子王位に即いて、継母達摩后姙娠中の子は行く行く王を殺して代り立つと相師が言ったから、今の内に后を殺すべしといきまく。
宰牛この事早まるべからず、男を生むか女を生むかを見定めた上、果して男を生んだら殺したまえと諫め、王その言に随い大臣をして后を監視せしむ。大臣后を自宅に迎えて八、九日たつと后男子を産んだ。それと同日同刻に漁師の妻が女子を生んだ。
宰牛大臣すなわち銭を与えて漁師の妻を説き、その生むところの女子を后が産んだ男子と取り換えた。それから王に詣でて達摩后は女子を生んだと告げたので、王しかる上はわれ安心なりとて再び問わなかった。后が生んだ男子は漁師に養われたが、ようやく長じて読み書きを好み、殊に詩を巧みに作ったので詠詩漁児と呼ばれた。
宰牛大臣一日達摩后に后が産んだ男児今は詩人になり居ると告げると、后何卒一目逢わせてほしいと望んでやまず。宰牛謀計してその子に魚を持たせ、魚売りの風をして母を訪わしめた。相師またこれを見て、この魚売りは必ず我王を殺して王位を取るべしと言った。王これを聞いて群臣に命じ捕えしむ。
漁師の子これを知って諸処逃げ廻りついに一老姉にかくまわる。老姉謀ってその身に芥子と胡麻の油を塗って死骸に似せ(シェッフネルの『西蔵諸譚』にこうある。唐訳には大黄を塗って死人の色のごとくすと出づ)、林中へ舁き往かしむ。その時林中に花果を採る人ありて、漁師の子が死人中より起き出でて走るを見、逐えども及ばず。
そこへ王の使者来って箇様箇様の人相の者を見ぬかと問うに、ちょうど只今見た、この路から去ったと指し示すに随い王使は追い往く。漁師の子は走って山里に到り、染工に就いて隠れ家を求めた。染工これを衣嚢で重ね包み、驢に載せて里外の浴場に運び去った。そこで漁師の子起き上り辺を見廻し立ち去る処を、また見た者ありて王の使に語ったから王の使はまた追って往った。
漁師の子は遁れて靴工の宅に入り仔細を明かし、踵を前に指を後にした靴一足を拵えもらい、穿って村を出るに高い牆で取り廻らして踰ゆる事ならぬから、やむをえず水竇中から出た。王の使追い到り、その脚跡を尋ねて靴師の家に至ったが、本人は遠く逃げ去りいた。
この靴を逆さまに履いて追う者の眼をごまかし無難に逃げ果せるという事よくあるやつで、『義経記』五の六章に、義経吉野を落る時、弁慶誰も命惜しくば靴を倒しまに履きて落ちたまえと勧め、判官その所由を問うに、西天竺しらない国の王、はらない国王に攻められ逃げる時、靴を逆さまに穿いて命を全うし、再び兵を起して勝軍した故事を、法相三論の遺教中から学びいたと答えたと記す。津村正恭の『譚海』二に、丹後の由良の湊に逆沓という故事あり、つれ王丸という冠者、三荘太夫が許を逃れて京へ登る時に、雪中に沓を跡になし穿きて逃れたる故、雪に附ける足跡奥の方へ行けるように見えしかば、追手の者奥の方を尋ね求めし故、遁れて京へ入る事を得たりという。
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