犬に関する伝説(その12)

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     ア氏また曰く、これと同じ話が回教国にもあってアブダラ・バン・マームードの書に出づ。それには判事が犬主をんで、回教の信弟子に限った葬礼を不浄極まる犬に施すは不埒千万ふらちせんばんだ、七睡人の犬もオザイルの驢もかつてかかる栄遇をけたと聞かぬと叱ると、犬主死犬の睿智を称揚して判事に犬が二百アスペルを遺産したと申す。判事気色打ち解けて書記を顧み、それ御覧世間の口は不実なものだ、被告も正直過ぎて人ににくまれると見えると言い、更に被告に向い汝はいまだ死犬のために祈祷せぬらしいからわれらと一緒に始めようじゃないかと言ったとある。

    このしまいの文句は欧州語に難訳で、祈祷を始めようと金を入れたふくろを開こうとの両義を兼ね表わしいると。レーンの『近世の埃及エジプト人』十八章には著者カイロにあった内、夫も子も友もない女が一犬を子のごとく愛したが、犬死んで愁歎の極、その柩前きゅうぜんに『コラン聖典』を運ばせ唱師から泣き婆まで傭うて人間同様の葬式行列を行い、ことあらわれて弥次やじり殺されかけた由を載す。して見ると犬を不浄至極と忌む回教中にも、時たまには実際これを人同様に葬する奇人があるのだ。

     さて右述判事が七睡人の犬と言った訳は『コラン』十八章を見て判る。西暦二五〇年ローマ帝デキウス盛んにキリスト教徒を刑した時、帝に仕えた若者七人キリスト教を棄つるを厭い、エフェスス近傍の洞中にかくれ熟睡二百年にわたった。その間太陽日ごとに二度その進路を変えて洞中に光を直射せず。上帝また特に世話して、睡人を左へ右へ転ぜしめてその体の腐るを防ぎ、睡人の伴れた犬ラキムは前肢で洞口をふさいでこれまた沈睡したが、人も犬も睡中神智を多く得てラキムは世界無類の智犬となった。

    西暦四五〇年テオドシウス若帝の治世に至り、七人始めてめてエフェスス村に入った。たった今少し眠ったと思うたに似ず世態全く変って、キリスト教が全国に行われ、ローマ帝国は二分して東西各一君を戴く、何が何だかさっぱり分らず、王質が山を出て七世の孫に逢ったごとく、村人の答うるところ、皆七人を驚かさざるなきを見て一同更に一層驚異し、伝え伝えて帝の御聴に達し七人を召さる。

    七人御前に侯じて種々の奇事を奏した。就中なかんずく、二百年後マホメット世に出て回教を弘め大成功する由を予言したとは、回教徒がもっとも随喜する所である。かくて七人また洞中に退き死んだがその洞は今もあり。犬ラキムは当時一切の聖賢を凌駕した智犬と崇められ、人争うてこれに飲食を供したが、死後回教の楽土に安居常住すという。

    けだし畜生で回教の楽土に永住するを得たるものこの犬のほかに九あり。ヨナーの鯨、ソロモンの蟻、イシュメールの羊、アブラムのこうし、シェバ女王の驢、サレクの駱駝、モセスの牛、ベルキの郭公、マホメットの驢だ。キリスト教の伝うる七睡人の譚は、ギボンの『羅馬衰滅史』三十三章の末に手軽く面白く述べられているが、それにはここに述べた犬ラキムの名は一所見えるのみで、それについての譚全く出おらぬ。

     白井権八しらいごんぱちの人殺しは郷里で犬の喧嘩に事起ったと、講談などで聞く。西洋にも詩聖ダンテまで捲き添えを食わせたゲルフ党とギベリン党の内乱は全く犬の喧嘩に基づいたというが、はなしが長過ぎるからやめとする。東ローマ帝国が朝廷の車の競争から党争に久しく苦しみし例もあり。『醒睡笑』には、越前の朝倉家が相撲の争論から、骨肉相殺すに及んだ次第を述べある。

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    「犬に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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