猪に関する民俗と伝説(その18)

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     舜は邇言じげんを察したとか。今日書物で読んでさも自分がり出したように、科学の学識のと誇る事どもも皆過去無数こうの間不文の衆人が徐々に観察し来った功績の積もった結果だから、読書しない人の言を軽んずべきでなく、未開半開人も驚くべき経験上の知識を持ち居る例多い。

    お江戸日本橋七つ立ち、はつ上りの途に著いてから都入りまで五十三駅の名を作り入れた唄を、われら学生の時唄いながら箱根山を下駄穿げたばきで越えて夏休みに帰国したものだ。その内に「上る箱根の御関所でちょいとまくり、若衆の物では受け取れぬ、こちゃあ新造でないかとちょと三島」てふ名句があった。

    箱根の関を婦女が通るは厳禁で、例せば文政十一年本多近江守長崎奉行勤務中、その足軽あしがる島田惣之助そうのすけは舞袖事たき十九歳、同じく西村新三郎は歌扇事かね二十歳という娼妓を買いなじみ、たきは夫婦約束、かねは身請けされて親元にたところ、十二年十月男二人とも出立に付き、たき惣之助を慕い駈落してかねに落ち合い、たきは若衆姿に化けて関所を通り、両人とも江戸へ著いたとがやっこにされ、惣之助は二十七歳で死刑と天保二年筒井伊賀守役宅で宣告された(『宝暦現来集』二一)。かかる犯罪予防のため関所で少年姿の秘部を検したから「ちょいとまくり云々」と唄うたものだ。

    『明月記』に天福元年十一月御法事の夜僧房の童が女の姿で堂上に昇り、大番武士にからめらるとあり。『書紀』に小碓命おうすのみこと少女の装いで川上梟師たけるちゅうしたと出で、婦女男装して復仇したり、役者が女装して密通したりなど往々聞くが(『拾遺御伽婢子おとぎぼうこ』三の三、『甲子夜話』続二一)、多くはその場だけで事済み、外国のような大騒ぎ社会を害毒するの甚だしきに至らぬ。

    エジプト等の回教国には婦女閉居して男子を見ず。女客の往来すこぶる自在で、妻妾の室の入口に女客の靴あらば、夫も遠慮して引き還す。故に女装の男子容易に奸を行う(一八四六年パリ版、コンブ『埃及エジプト行記』二三頁)。これら諸国に常習の女装男子、男装女子あり。また半男女ふたなりまた閹人えんじんあり。各男装女装して事を行えばその犯罪夥しく社会動揺少なからず。仏国のデオンごとき男子女装して常に外交や国事探偵に預かり、死尸しかばねを検するまで男女いずれと別らず、大いに諸邦を手古摺てこずらせた。

     支那の明の成化間石州の民桑※そうちゅう[#「栩のつくり+中」、331-7]、幼より邪術を学び纏足てんそく女装し、女工を習い寡婦をよそおい、四十五州県に広く遊行し人家好女子あらば女工を教うるとて密処に誘い通ず。女従わざれば迷薬呪語もて動くも得ざらしめはずかしむ。女名を敗るをおそれついに口外せず。かくのごとく数夕してすなわち他処に移る故久しくても敗れず。男子の声を聞かばはしり避けた。かくのごとき事十余年、河南北、直隷、山東、山西に※(「彳+編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第3水準1-84-34)遊して大家の室女百八十二人を汚す。

    のち晋州に至り高秀才の家に宿る。その婿趙文挙ひどく寡婦を好み、自分の妻を妹といつわり、き入れて同宿せしめ中夜にこれに就くに※[#「栩のつくり+中」、331-13]大いに呼んで従わず。趙無理やりその衣を剥げば男子なり。官に送り糾明するに実を吐き、その師大同の谷才この術を行うたが既に死んだ。その党任茂、張端等十余人各途を分ち非行すと。急ぎ捕えて罪定まり皆磔殺たくさつされた。

    [#「栩のつくり+中」、331-15]の門人王大喜その術をその弟王二喜に伝え、二喜十八、九歳の艶女に化け裁縫絶巧兼ねて婦女を按摩あんます。かくて行う事久しからず、やっと十六人に施したのち東昌に至り、馬万宝の隣家に宿る。一度嫁したが舅姑に虐げられて脱れ出たという。馬これを垣間見かいまみ瓢金ひょうきんなその妻と謀り自分は飲みに出たと称し妻をして疾に托して王を招かしめた。さて妻が厨舎の門を閉づるとて燭を隠し出で往いた跡へ素早く馬が入れ替り居るとは白歯の似せ娘、馬をその妻と心得按腹する指先で男とわかり、逃げかかる処を馬が止め検すればこれも立派な男子の証拠儼然たり。

    妻を呼び燈を執りなじってその実を知り、告発せんにも余り可愛らしい。ついに取って押えてこれを宮し、きずを療じた後、これ我が表姪王二姐とて、生まれ付いた無性人で夫にわれたとこの頃知ったから妻の伴とし置くと称し、昼は下女同然にまかなわせ使い、夜はすなわち狎処こうしょした。間もなく桑※[#「栩のつくり+中」、332-8]伏誅しその徒皆棄市きしされた時二喜のみ免れた。探索厳しいから村人多く疑う。由って老婆連を集め見せるに全く無性人と判った。王二喜ここに至って馬生を徳とし、そのすままに身を任せて一生を終り、死して馬氏の墓側に葬られた。

    支那では余り希有けうな事でないらしく、おどけ半分に異史氏が評して馬万宝善く人を用ゆる者というべし。児童かにを面白がるがはさみおそろしい。因って鉗を断ちて飼う。万宝もこんな美人をそのまま置いては留守に家を乱さるるからこれを宮して謀反の道を断って思うままにもてあそんだのだ。ああいやしくもこの意を得ば以て天下を治むるも可なりといった(「鳥を食うて王に成った話」参照)。桑※[#「栩のつくり+中」、332-15]が事は『明史』にも具載され大騒動だったのだ。

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    「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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