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内典を閲するに、仏や諸大弟子滅後久しからぬにこんな故事附けが持ち上ったと見え、迦多演那尊者空に騰って去る時、紺顔童子師の衣角を執って身を懸けて去る。時に人々遥かに見て皆ことごとく濫波底と言う。懸けるという事だ。それより北インドに、濫波という国名が出来たと見ゆ(『根本説一切有部毘奈耶』四六)。
今一つ豕に因んだ例を挙げんに、ホーンの『テーブル・ブック』一八六四年版一九〇頁にいわく、数年前エールス人ダヴッド・ロイドが、ヒャーフォードで、六脚ある牝豕をその一膳飯店に飼ったからたまらない。見物かたがた飲食に出掛ける人引も切らずと来た。ところが、ダヴッドの妻、怪しかる飲んだくれでしばしばなぐっても悛まる気遣いなし。一日例のごとく聞し召し過ぎ、例の打擲がうるさいから檻の戸を開けて六脚の豕を出してその跡に治まり返る。折節一群の顧客噂に高い奇畜を見に来り、ダヴッド大恐悦の余り何の気も付かず欄辺に案内し、皆さんこれまでこんな活き物を御覧にならないでしょうというと、かみさんが大の字になってグウグウと高鼾の体、観者の内の一百姓「ホンに貴公のこの牝豕ほど酔うたのは生来一度も見ない」といった。それからダヴッドの牝豕ほどずぶ酔いてふ俚言が起ったと。これも何だか跡から牽強のよう想わる。
馬琴の『蓑笠両談』二に、丸山応挙に臥猪の画を乞う者あり。応挙いまだ野猪の臥したるを見ず心にこれを想う。矢背に老婆あり薪を負いて毎に応挙が家に来る。応挙婆に野猪の臥したるを見た事ありやと問うに時折は見るという。重ねて見付けたら速やかに知らせよと頼む。一月ばかりして走り来りわが家の後の竹篁中に野猪臥すと告げた。応挙由って矢背に至り臥猪を写生し、家に帰りて清画しおわった処へ鞍馬より老人来る。汝野猪の臥したるを見たるかと問うに毎に見ると答う。すなわち画を示すを翁熟視してこの画よく出来たが臥猪でなくて病猪だという。
応挙驚いてその故を問うに翁曰く、野猪の叢中に眠るや毛髪憤起、四足屈蟠、自ずから勢いあり。かつて山中で病猪を見たるに実にこの画のごとしと。応挙初めて暁り翁に臥猪の形容を詳しく聞き、専らその口伝に拠って更に臥猪を画く。四、五日して矢背の老婆来り、怪しむべしかの野猪その翌朝篁中に死んだと告げた。これを聞いていよいよ翁が卓見を感じ、再びその音信を俟つに十日ばかりして翁また来る。応挙後に出来た図を示すと翁驚歎してこれ真の臥猪なりという。その画もっとも奇絶、今なお京都某家にあり。挙が画に心を用いし事かくのごとし(『嘯風亭話』)。
また西定雅の話に、応挙若かりし時野馬、草を食む所を画いた。一翁これは盲馬だと難ず。その訳は馬は草で眼を害せぬように眼を閉じて草を食いに掛かる。この馬は眼を開きながら草を食うから盲目と断じたと。応挙深くその説を感ず。そもそもこの二翁何人ぞ野夫にも功の者ありとはこれらをやいうべきと出づ。
千河岸貫一氏の『日本立志編』には、応挙鶏を額に画いて祇園神社に掲げ、毎に窃かに詣でて衆評を聞くと、画は巧いがまだ足りぬ処ありと呟いて去る者あり。走り付いてその説を敲けば多年鶏を畜う人で、われは鶏の羽色が四季に応じて変るを熟知す。この鶏の羽色と側に描いた草花と時節が合わぬと言ったので応挙厚く謝したとあったと覚える。
寛文二年板『為愚痴物語』四に能の太夫鼻金剛という名人、毎に人を観客中に混在せしめ、衆評を聞いた上己れに報ぜしめて難癖を直す。ある時その人々に今日の評はと聞くと今日は誰一人誉めない者はなかったと答う。その内一人いわく、ただ一人能に難なけれど男が少し小さいばかりの難があるといったと。太夫聞いてさては我が能まだ上手に達せずと。
人々男の小さきは生まれ付きなり、能の上手下手に係らずやと問うと、太夫、善知鳥の曲舞に鹿を追う猟師は山を見ずという古語を引き居る。鹿に全く心取らるれば山の有無も知れぬものだ。我が芸まことに上手なら見物はそれに心取られてわが男の大小などに気付かぬはずだ。我が芸未熟なればこそ男の小さきが目に立ったのだと語るを聞いて、皆人誠に物の上手は別な物と感心したそうだ。
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「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収