猪に関する民俗と伝説(その15)

猪に関する民俗と伝説インデックス


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     英国でボグス・ノルトンの豕はオルガンを奏すという俚語あり。以前その地の住民しからず粗暴野鄙やひだったに付けて、似合わぬ事の喩えの諺とカムデンは言った。レイの説にはその地の教区寺のオルガン手にピクス(豕)なる人が昔たからと解き、ケイヴはかの地古くオクスフォード伯の領所で、教区寺のオルガンの楽鍵ごとにその端に伯家の紋章豕をりあるからと釈いた(今年一月十三日の『ノーツ・エンド・キーリス』三四頁)。
    俚諺の根源を説くに、かく種々ありて一定せず、いずれを正説と定めがたい。

    寛文二年板『為愚痴いぐち物語』六に秀吉公の時、千石少弐なる人、「よろずの道にさし出で、人も許さぬ公儀才覚立てして差してもなき事をも事あり顔にもてなし、親しき朋友と寄り合い打ちうなずつぶやきなどする事を好めり、さればその頃世人のさようの振る舞いする人をば千石少弐を略して千少もの、千少事などいいて上下笑い草となせり、それを今の代までも言い伝えたり、昔より言い伝えたることばに、文字にも当らず義理にもあらず、何とも知れざる詞多し、皆この類にてやあらまし、また僭上は古き字なり」と記す。

    僭上は身分不相応な上わぞりをする義で古来この語あり。ここに見えた千石少弐の行いと多少違うから、千少と僭上ともと別でのち混一されたものか、ただしは僭上なる字を知らぬ人がたまたま千石少弐の行いを見聞して僭上を千少と曲解したのか、『為愚痴物語』を読んだばかりでは判じがたい。

     往年広島在の高橋てふ男、大井馬城に随ってシンガポールに渡り放浪中、その頃日本領事だった藤田敏郎氏よりロンドン在留大倉喜三郎氏宛て「この者前途何たる目的もこれなく候えども、達って御地へ参り候に付き、しかるべく御世話頼み入り候なり」という古今無類の紹介状を貰い渡英したが、全く英国風に化せず、本国にある壮士同然の振る舞いに、大倉氏も愛憎をつかしほり出した。

    それから当時ロンドンで総領事だった荒川巳次君宅へ寄食したが、子供の守りをするがうるさいとかで逃げ出し、前途何たる目的もなしに一日大英博物館をうろつく内、余り異風な故守衛が何国の産かと問うと日本と答う。日本人なら館内に南方という人があると聞いてたちまち予に面会を求めた。

    既に多年海外にあって同国人にはひどい目にたびたび逢った予は余り好まなかったが、とにかく腹がへってかなわぬというから館外の食堂へ伴れ行き一食させ、事情を聞いて色々世話し、その頃高名の詩人サー・エドウィン・アーノルド夫人が日本生まれだったのでその厄介にならせたところ、『史記』に見えた馮驩ふうかん同様少しも足るを知らぬ不平家で小言絶えず。殊に頭を丸剃りにして明治十三年頃新吉原を売り歩いた豊年糖売りがぶらさげた火の用心と大書した烟草タバコ入れを洋服の腰のポケットに挿して歩く。

    またアーノルド男宅の地下室で食事するに大食限りなきを面白がり、下女ども種々の物を供えくれるをことごとく平らげ、ついには手真似で酒を求め、追い追い酔いの廻るに随い遠慮もなくオクビを発し、頬杖ほおづえ突いて余肉をうなど、彼方あっちの人のしない事ばかりする。

     その頃英語で『ヒューマン・ゴリラ』てふ図入りの書を作った者あり。強姦に関する研究を述べたので、医学法学上大いに参考となり別に驚くに足りないものだったが、題号が突飛なので英国で出版むつかしくパリで出版して英国へ輸入した。ゴリラはわが国でヒヒというと斉しく大なるさるで、ややもすれば婦女を犯す由、古来アフリカ旅行記にしばしば見える。それからこの書に人間のゴリラと題号を附けたのだ。

    この事をどこかで高橋が聞きかじり、例のごとくアーノルド男邸の地下室へ食いに往って悪戯いたずらをするうち猴の真似をした。下女どもはそれは何の所作事しょさごとかと尋ぬると、われは人間のゴリラであると飛んでもない言を吐いたから、下女ども大いに驚き用心して爾来ろくに近寄らず。

    高橋は何の気も付かず、二、三日は下女多忙で自分に構ってくれぬ事と思いいたが、幾日立っても至極の無挨拶なるに業をにやし、烈火のごとく憤って男爵夫人に痰呵たんかを切り、汝はわれと同国人なるに色を以て外人の妻となりたるを鼻に掛け、万里の孤客たるわれを軽んずるより下女までも悪態を尽すと悪態極まる言を吐いたので大騒ぎとなり、男爵大いに怒ってその朝限り高橋をお払い箱にした。

    それから全くの浪人となってあしたに暮をはからずという体だったが、奇態に記憶のよい男で、見る見る会話がうまくなり、古道具屋の賽取さいとりしてどうやらこうやら糊口ここうし得たところが生来の疳癪かんしゃく持ちで、何か思う通りにならぬ時は一夕たちまち数月掛かって儲けた金を討ち死にと称して飲んでしまう。

    一度ならよいが幾度も幾度も討ち死にをするのでどうしても頭があがらず、全く落城し切って大阪の山中氏がロンドンに出している骨董舗こっとうやに奉公ときまった時予は帰朝の途に上った故その後どうなったか知らぬ。この人については無類の奇談夥しくなかなか一朝夕に尽されない。就中なかんずく、その討ち死にのしようがまた格別の手際てぎわで見聞くあきれざるはなかった。

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    「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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