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それよりも古く宋の時男色を営業する者多く、政和中法を立て、男子を捕え娼と為すを告げれば賞銭五十貫、罪人は杖一百と定めた。南渡の後呉俗もっとも盛んで、皆脂粉を傅け盛んに粧飾し、針縫を善くし、呼んでいう皆婦人のごとし。その首たる者を、師巫行頭と号す。およそ官府に不男の訟あらばすなわち呼んでこれを験せしむ。風俗を敗壊するこれより甚だしきはなし(『※[#「こざとへん+亥」、333-4]余叢考』四二)。
また古く『漢武故事』に、初め武帝太子たりし時、伯母大長公主その女陳阿嬌を指し好否を問う。帝曰く、もし阿嬌を得ばまさに金屋を以てこれを貯うべしと。公主大いに喜びすなわち帝に配す。これを陳皇后という。後皇后寵ついに衰え驕恣ますます甚だし、女巫楚服なる者自ら言う、術あり能く上の意を回らしむと。昼夜祭祀し薬を合せて服せしむ。巫男子の衣を著け冠帯素し皇后と寝居し相愛夫婦のごとし、上聞いて侍御を究治す。巫后と妖蠱呪詛し女にして男淫するを以て皆辜に伏す、皇后を廃して長安宮に置くと。
『漢書』にこの連坐で三百余人誅せらるという。この后の曾祖父陳嬰は無類に謹厚な長者で秦の世乱れた時推して王とされたが、その母我汝が家に嫁し来ってより、いまだかつて汝が先祖に貴き者ありと聞かず、今大名を得ば不祥だ。宜しく他人に属すべし。事成らば封侯を得、事敗れたら逃るるにやすからんと言う。由って衆に勧めて代々名将だからとて項梁に属し、後漢に帰して堂邑侯たり。かかる有徳の人の後にこんな奇態な皇后が出来、あろう事か妖巫といわゆるお姿夫婦(『傾城難波土産』四の二)の語らいから帝室の威厳を損ずる大騒ぎを起したは何たる事ぞ。『史記』外戚世家一九に、この后子なき故、その母が武帝を立てた偉功あるにかかわらず廃せられ、子を求めて九千万銭を医に与えたが、ついに子なしとあれば、楚服はもとよりこの后も多少半男女がかった変り物だったらしい。
インド、エジプト等の諸国に至っては、バートンの『千一夜譚』や仏教の律蔵、ラメーレス訳『愛天経』等を見て一斑を覗わるるごとく、外貌天性とも男女いずれと別らぬ者充満し、対角線を引いたごとく入り乱れて行なうから奇々怪々の異事最も多い。したがって艱難は発明の母ともいうが、男装女子や女装男子を見別つ法も随分あったといわせるほど備え居る。
たとえば男女いずれとも別らぬ者を見れば、何気なき体で遊戯に誘い入れ、普通本邦婦人が洗濯する体に蹲まらしめ、急に球を抛げると両手で受け留むる刹那、股を開けば女子、股を狭むれば男子とは恐れ入ったろう。また予は実験しないが、一八六七年パリ版、ゴダールの『エジプトおよびパレスチナ』一四一頁に記したは、エジプトで女奴を買う前、身体検査にその女の身内熱きか否かを識る法あり、大盥に水の冷たいのを入れてその中に坐せしむると吸い込む故、それだけ水面が降る。降る度の高いほど精力強しと知ると。
惟うに近頃諸国で結婚問題やかましく、優生学者等同音に男女身体検査を厳重に行うた後、相応しい同士を婚せしむべきを主張するが、体健かにして子なきも多ければ、要は第一に男女精力の強弱を検すべきで、東洋に古く行われた指印から近時大奏効し居る指紋法が発達したごとく(この事に関して『ネーチュール』に出した拙文はガルトン始め諸国の学者に毎度引かれ居る)、この吸水力が果して精力を表わすか否を試験した上、いよいよエジプト人のいう通りならば、それより敷衍して婦女精力計という精細な器械を作り出さん事を国家の大事として述べて置く。
まだまだ多年の薀蓄、こんな創思はあり余って居るが、愚者道を聞いて大いにこれを笑う世の中、遺憾ながら筆を無駄使いせぬようこれ位でやめる。とにかく今日半開と呼ばるる回教諸国などなかなかえらい発明も多かり、能くその法を採用したら、上る箱根のお関所でちょと捲るに及ばず、毬一つ投げ受けしただけで、男女を識別し得たはずだ。
支那の検屍法などにも西人の想いも付かなんだ事多く、予在欧の昔すら『洗冤録』などを訳させて験し居る者があった。わが邦でも笑うて過さずにその当否を試験せば、近日聒ましい父子血合せの法くらいは西人に先鞭を付けられずに済むだろう。たとえば万治二年中川喜雲著『私可多咄』五に『棠陰比事』を引いて、呉の張挙訟えを聞くに、夫を殺し家を焼き、妾夫火事で焼け死んだという妻の言を夫の親類受け付けず。挙豕を二疋取り寄せ、一を殺し他は生きながら薪を積んで焼いて見れば、殺して焼いたは口中に灰なく、生きながら焼いたのは、灰、口を埋めいた。さて、かの夫の口中を見れば少しも灰なかったから、夫を殺して後火を掛けたと、豕と比較して見せたので女争わず服罪したとあるごときも、支那人の気の付けようは格別と思われる。応挙が画くごとにその物に経験厚い人の説を聞いたはもっともだ。
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「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収