南方二書(口語訳23)


南方二書(口語訳)

  • 1 那智山濫伐事件
  • 2 証拠品の古文書
  • 3 拾い子谷
  • 4 那智のクラガリ谷
  • 5 植物の全滅
  • 6 闘雞神社の大樟
  • 7 土地固有の珍植物
  • 8 人民への悪影響
  • 9 全国の神社合祀
  • 10 神社は地域の大財産
  • 11 珍しい動植物
  • 12 学問上貴重な神社林
  • 13 西の王子
  • 14 出立王子,三栖中宮,三栖下宮,本宮
  • 15 新宮
  • 16 神道
  • 17 秘密儀
  • 18 火事を消そうとする雉
  • 19 日高郡
  • 20 学術上の材料
  • 21 巧遅より拙速で
  • 22 糸田猿神社,竜神山
  • 23 奇絶峡,小土器
  • 24 古蹟の保存
  • 25 高原,十丈,野中,近露の王子
  • 26 これにて擱筆

  • 奇絶峡、小土器

    (乙)は、前状で述べた奇絶峡といって、田辺から2里ほどのところにある、耶馬渓そこのけという絶景の地である。希少な植物が多い。これも、何のわけもなく道路を作るといって破壊がはなはだしく、また石を切り出すため、地質学、考古学上の参考であるべき大足跡石などが今まさに亡びようとしている。キンポウゲ科のタニモダマも他所に少なくこの辺に多い。ホウライカズラもこの辺にだけあって開化する。チャボホトトギス、ジョウロウホトトギズなどがある。

    (丙)は、当国南部辺の社趾より出たという、珍しい小土器である。裏に拇印がある。チャンをかけ、横に蓋があり、それを鋲で打ち付けている。口を白粉(おしろい)のような細かい白い粉でつめてある。ローマの涙壷(ラクリマ)のようだ。小生はずいぶん欧米の博物館でこのようなものを扱ったが、こんなものは見たことがない。それが5個出て、みな小生が手に入れた(1個5銭で買った)。出た所を推問し、その塚などを実写しようとするが、売った者一同後難を恐れて口をつぐんで一切言わず、困ったものである。珍物というだけで、どこから出たか何の由来かさっぱりわからない。

    松村瞭君は貴息だとこの度初めて柳田氏から承った。もし考古学上珍しいものならば、お申し越しさえあれば、経てもって人類学会へなり、また大学へなり、寄付いたしましょう。

    備前国邑久郡朝日村にオコウベ(御首)さまという社がある(飯盛神社)。ピラミッドのような塚で、その内部構造は、中央に巨魁、周囲に子分の遺骸を収めているのだ。決して新しいものではない。神軍の伝説があり、また石鏃をこの辺から出すのを見れば、古いものであることを知ることができる。旧藩のときは、池田侯より年始に大きな注連縄の寄進があった。

    崇敬は他に異なっていたが、例の合祀で潰され、ただ今はものさびしい光景で悲しい。伝説によれば、これは平経盛の塚であるとという。どこの国でも古いことは、その人の姓さえない世のことなので失われやすく、

    チュンベルグが日本に来たときの紀行に、日本の天子の御名を、人民のいずれも知らず、これを聞き出すのにはなはだ苦労したことを述べてある。昔は、主君だけでなく、大酋長、大土豪の名さえ言わないことが多かったので、自然にその伝を失い、後に大己貴命(おおなむちのみこと)とか天照大神とかを勧請して維持したと見える。

    またただ今でも小生の祖先が出た村などは南方熊という姓名が多く、現に当町でも南方熊太郎という人がいる。いつも郵便配達の間違いに困っているのだ。(一昨年の『大阪毎日』に、摂州に同姓名が60人とかある村のことを記していた。)近来でも、カンボジアなど全国に男女同名が多く、姓氏がないため証文を判断するのにはなはだ苦労するということが、Moura のその国誌に見える。

    ゆえに辺鄙に同名の諸神の異伝が多く(『日本紀』はすでに異伝の神話が多い)、学者はこれを記伝にないのでといって端から虚談とするのは、かえってはなはだ実情に遠いものである。また犬飼部(いぬかいべ)、鳥取部(ととりべ)などの部族が各国に分かれて住んだので、その祖先の伝も同名の人が多いのとともに、ますます同名の神に異伝を多くしたことだと知られる。

    最近ゴム氏(今年正月、民俗学上の多年の功労により受爵された)が古話俚伝はことごとく書物がない時代の史実であると言ったが、大分道理あることである。

    イスラム教国では、偉大な跡はことごとく、回祖ムハンマドやアレキサンダー王に帰し、日本でも、大力の跡は弁慶、風景の所は金岡、霊験の跡は役小角弘法大師に帰するのが習いだが、このような1人1人に関する古跡は実証があるのでなければ、それほどまで大騒ぎをして保存する必要なないと思う。件の飯盛塚が本当に経盛の葬処だったところで、この経盛という人は敦盛の父というだけで何の益もなく、ただ歌集にあってもなくてもよいような歌が3、4伝わっているだけなので、遺蹟を滅却して畑となし、平経盛の碑と1本卒塔婆を立てれば済むことである。

    しかしながら上述のような塚の結構とあっては、とても経盛ごろのものでなく、まったく古えの酋長を中とし、殉死または戦死の臣下の死体を周囲に埋める風習があったのを実証するもので、書物の不足を補い、わが朝にはわが朝固有の風俗があったことを証明する大益のあるものなので、たとえその塚が何の誰と名を差して知れなくとも少しもかまわず、わが国文化開新の履歴を証明するものとして、もっとも保護を加えたいことではございませんか。

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    「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収




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