猪に関する民俗と伝説(その2)

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     猪に関する伝説を書くに当り、この篇の発端にちな んで野猪と蝮蛇の話を述べよう。けだし野猪に限らず猪の類は、皆蛇を食う(アリストテレスの『動物史』九巻二章。プリニウスの『博物志』九巻一一五章)。ところが日本では家猪が久しく中絶と来たから、専ら野猪のみ蛇を制するよう心得たのだ。

    『集古』庚申五号に、故羽柴古番氏が越後国南蒲原郡下保内村で十歳になる少女に聞いた歌を出した。「まだらむしや、わがゆくさきへ、ゐたならば、山たち姫に、知らせ申さん」右、家を出る時鴫居しきいをまたがぬ前に三遍唱うれば蛇に逢わぬ。もし蛇に食い付かれたる時は、ボトロ(蕨の茎葉)にて傷口を撫でながら右の歌を唱うれば、蛇毒消散して害をなさずと。まだら虫とは蛇の事、山だち姫とは、ボトロの事なりというとある。

    大正六年二月の『太陽』に予この事について少しく述べたが、その後り得る事どもをあわせ述べよう。『嬉遊笑覧』に『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて「あくまたち、我たつ道に横たへば、山なし姫にありと伝へん」というを載せたり。こは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は「この路に錦斑にしきまだらの虫あらば、山立ち姫に告げて取らせん」。

    『四神地名録』多摩郡喜多見村条下に「この村に蛇け伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり、この辺土人のいえるには、蛇多き草中に入るには伊右衛門伊右衛門と唱えて入らば毒蛇に食われずという、守りも出す。蛇多き所は三里も五里も守りを受けに来るとの事なり、奇というべしといえり、さてかの歌は、その守りなるべし、あくまたちは赤斑あかまだらなるべく、山なし姫は山立ち姫なるべし、野猪をいうとなん、野猪は蛇を好んで食う、殊に蝮を好む由なり」とある。

     予在米の頃、ペンシルヴァニア州の何処どこかに、蛇多きを平らげんため欧州から野猪を多く移し放った。右の歌を解するに、あながちにアクマタチを赤斑、山なしを山立と説くを要せず。蛇を悪魔とするは耶蘇ヤソ教説その他例多し。山梨の事は「猴の民俗と伝説」に載せて置いた。野猪山梨の実を好んで山梨姫と呼ばれたものか、更に分らぬが歌の意は、山梨のなしに対してありすなわち蛇がここにありと告げて食わせるぞと蛇を脅かしたので、梨をアリノミともいうに因る。

    一八九〇年八月二十八日の『ユニヴァシチー・コレスポンデント』に仏人カルメットの蛇毒試験の報告出で、その中に家猪は蛇咬の毒を感ぜぬが、その血を人間に注射しても蛇毒予防の効なしとあったから見れば、家猪の根原種たる野猪は無論毒蛇に平左衛門であろう。

    さて、羽柴氏が越後で聞いた歌は、まずは『萩原随筆』のと『四神地名録』のとを折中したようだ。蕨の茎葉で蝮に咬まれた創口きずぐちを撫でてかの歌をじゅすと越後でいう由なるが、陸中の俚伝を佐々木喜善氏が筆したのには、蛇に逢いて蛇がにげぬ時「天竺の茅萱ちがや畑に昼寝して、蕨の恩を忘れたか、あぶらうんけんそわか」と三遍称うべし。かくすれば蛇は奇妙に逃げ去るとなりと(『人類学雑誌』第三二巻十号三一三頁)。

    これだけでは何の訳か知れねど、内田邦彦氏の『南総俚俗』一一〇頁に「ある時、蝮病でシの根(かやの根の事なれどここはその鋭き幼芽の事)の上に倒れ伏したれど、疲弊せるため動く能わざりしを、地中の蕨が憐れに思い、柔らかな手もて蛇の体を押し上げて、シの根の苦痛より免かれしめたり、爾後山に入る者は、奥山の姫まむし、蕨の御恩を忘れたかと唱うればその害を免かる」と載せたるを見て、始めて筋道が分った。

    これには蝮を南総で女性に見立て姫まむしというので、全く越後で蕨の茎葉を山だち姫というのと違う。熊楠いう、茅の芽は鋭くて人の足に立ちいためる。『本草綱目』一三に茅芽を俗に茅針というと出るもこれに因るのだ。この蝮も倒れた時茅の幼芽が立って傷つけたから、山にあって人や畜生の身に立ち困らせる、刺が立つの意で茅を山立ち姫と呼び、人を蝮が咬まば茅に告げて蛇の身に立たしむるぞと脅した歌の心でなかろうか。

    神代に萱野かやの姫など茅を神とした例もあれば、もと茅を山立姫というに、それより茅中に住んで茅同然に蛇が怖るる野猪をも山立姫といったと考える。佐藤成裕の『中陵漫録』六に、『本草綱目』に頭斑身赤文斑という、また蝮蛇錦文とあるに因って蝮蛇を錦まだらという、山たち姫といわば鹿だ。『本草』に鹿を斑竜と異名したから、山竜姫というが、鹿は九草を食して虫を食わぬ。好んで蝮蛇を食うものは野猪だから山竜姫は野猪であろうといったが、なぜそう名づけたかを解いていない。

     ついでにいう。津村正恭の『譚海』一五に、蝮蛇にされたるには年始に門松に付けたる串柿を噛み砕いて付けてよしと出づ。田辺近村で今も蝮に咬まれた所へ柿また柿の渋汁を塗る。宮武粛門氏説に、讃岐国高松で 玄猪げんちょの夜藁で円い二重の輪を作り、五色の幣を挿し込み、大人子供集りそれを以て町内をき廻る。その時唱う歌の一つに「の子神さん毎年ござれ、祝うて上げます御所柿ごしょがきを、面白や云々」、『華実年浪草かじつとしなみぐさ』十に、ある説に亥子餅いのこもち七種の粉を合せて作る。大豆、小豆、大角豆ささげ、胡麻、栗、柿、あめなりとあって、柿も七種の粉の仲間入りをしているが、くだんの歌に特に柿を上げますというのは、猪は格段に柿を好むにや。果してしからば偶合かも知れないが、猪と柿とふたつながら蛇毒を制すと信ぜられたは面白い。

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    「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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