猪に関する民俗と伝説(その13)

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     就中なかんずく、豕の守尊者はエンデリウス尊者でドイツのエンデル町にその堂あり。スコットランド王の子で宮中の栄華に飽き大陸に渡って僧寮をつかさどったという。中世僧侶欧州に充満し怠惰して大食ばかりしたから僧ほど肥えたちゅう諺あり。豕も遊佚ゆういつ大食する故豕ほど肥えたという。それから何となく僧を豕の棒組と見做みなすに及んだ。前条に長々と伝記を述べたアントニウス尊者は諸畜を司り別して豕の守護尊たり。フラーいわく、この尊者は豕同然に土に穴掘って住み根を掘って食うからだろうと。

    グベルナチスは北欧のトール神は婚姻を司り豕を使物とし、この尊者また婚姻を護れば豕を愛すとされたものかと説いた。アンリ・エチアンヌは、この尊者出家前農を務め豕を飼い、死後無数の愚僧その余慶で飽食放逸したという意味らしき古詩、アントニウス世にありては豕を飼い、身死しては僧を飼う、斉しくこれ肥えて馬鹿で麁悪そあくな物とんだのを引いた。つまり僧と豕を一視するの盛んなるより尊者を豕の守護尊としたらしい(『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯第十一巻三一六頁。グベルナチス『動物譚原』二巻六頁。エチアンヌの『エロドト解嘲かいちょう』二二章)。『小夜さよ嵐』三に、ぶたのもしき坊主とあるは頼みにならぬ坊主で豕に関係なし。僧と豕について次の珍談あり。

     十六世紀にナヴァル女王マーゲリットが書いた『エプタメロン』三四譚に述べたは、一夜灰色衣の托鉢僧二人グリップ村の屠家に宿り、その室と宿主夫婦の寝堂の間透き間多き故、ながら耳をそばだて聞きいると、かかよ、明朝早く起しくれ、灰色坊主のうち一疋はよほど肥えているから殺して塩すると大儲けのはずと言う。この家に飼った豕を灰色坊主と名づけたと夢にも知らぬ二僧これを聞いて終夜眠らず、その一人甚だ肥満しいたのでてっきり自分は殺さるる、戸はざされたから夫婦の室を通らにゃのがれず、何としたものと痩せた僧にささやくと、それよりこれが近道と、窓を開いて地に飛び下り友をもたずに逃げ去った。

    肥満僧続いて飛び出すはずみに体が重くて誤って落ち、片脚を損じて走り得ず。近くに豕箱あるを見付けて這い往き、戸を開くと大豕二頭突き出て去った。跡へ入って身を潜め誰か通らば救いを乞わんと思いいる内、暁方あけがた近く屠者はでっかい庖丁ほうちょうぎ、北のかた同道でやって来て箱の戸を明け、「灰色の坊様出てきやれ、今日こそお前の腸を舌鼓打って賞翫しょう」と大いに呼ばわる。坊主は身も世もあらぬ思いに腰全く抜け、どうぞ命をと叫びながら四つ這いで出るを見て夫婦も尻餅しりもち、平素畜生を灰色坊主と呼んだ故、灰衣托鉢僧団の祖師フランシス大士が立腹と早合点で、地にひれふし、大士と弟子たちの宥免ゆうめんを願い奉ると夫婦叩頭こうとう、坊主も頓首とんしゅし続けて互いに赦しを乞う事十五分間とは前代未聞の椿事なり。

    ようやく夕べ宿とまった坊様と知れてやや安堵すれば、僧また豕箱隠れの事由を語り、双方大笑いで機嫌は直れど損じた脚は愈えず。亭主気の毒さの余りかの僧を家に請じて鄭重にもてなす。痩せた坊主は終夜休まず走って朝方荘官しょうかん方へ著き、怪しからぬ屠家へ宿った、同伴は続いて来ぬから殺されたは必定ひつじょうと訴え出たので、荘主フォルス卿、急ぎ人を馳せて検察せしむると右の始末と、聞いた者一人も泣かずに済んだと、後日フォルス卿がフランシス一世王の母アグレームン女公のへそに茶を沸かしめて語った由。

     『通俗三国志』に曹操そうそう董卓とうたくを刺さんとして成らず。故郷に逃げ帰る途中関吏に捕われしを、陳宮これを釈し、ともに走って、三日の暮方に成皐に到る。操曰く、そこの林中にわが父と兄弟のごとく交わった呂伯奢の家あり、今夜一宿しようと。すなわちその宅に入り仔細を話すに伯奢喜んで二人をもてなし、自ら驢に乗りて西村へ酒買いに往く。夜ややけて屋後に刀をぐ音す。曹操陳宮にこの宿主はわが真の親類でもなく、夜分出て往ったも覚束おぼつかなし。われらを生け取って恩賞をむさぼるのでなかろうかと囁き、立ち聴きすると磨ぐ音やまず。さて二、三人の声して縛り殺せというた。

    さてこそ疑いなし、此方こなたより斬って掛かれと抜剣して進み入り、男女八人を鏖殺おうさつして台所の傍を見れば生きた豕をつなぎいた。陳宮悔いて全く豕を殺してわれらを饗する拵えだったに曹操急に疑うて無辜むこを殺したと言う。曹操は過ぎた事は仕方がない、早く遁りょうと馬に乗って二里ほど逃げ伸びると、呂伯奢驢に騎し酒果携えて来り、二人のいそぎ走るを怪しみ何故早く去るぞ我家に豕一匹を用意した、是非一宿せよというを曹操たちまち刺し殺した。陳宮先にあやまって殺したは是非もないが、今また何で呂伯奢を殺したかと問うと、操人家に還って妻子の殺されたを見てそのままに置くべきかと答う。これより陳曹操の不仁をにくみ、次の宿でその熟睡に乗じ刺し殺さんとしたが思い直してこれを捨て去り、後日呂布りょふの参謀となって曹操に殺されたとある。

    この話の方が『エプタメロン』の托鉢僧の譚より古いようだが、陣寿の『三国志』その他古書に見ゆるか、後代の小説に係るか只今調べ得ぬは遺憾だ。ただし『淵鑑類函』三〇九に〈初め太祖故人呂伯奢を過るや云々〉とあれば呂伯奢という人があったに論なし。

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    「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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