猪に関する民俗と伝説(その12)

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     そもそも、熊楠幼時より信心厚く、何でもござれで諸宗の経典に眼をさらし、断食苦行などは至極の得手物で、先日円寂した土宜法竜大僧正など、汝出家せば必ず中興の祖師となれると勧められた。

    毎度のこと故その気になってしからばなって見ようというと、『維摩経ゆいまぎょう』に、法喜を以て妻とし慈悲心を女となし、諸淫舎に入りては欲の過ちを示し、諸酒肆しゅしに入りてはくその志を立つとある。貴公酒を飲みながら勉強するは知れ渡り居るが女の方は如何と問うた。予は生来かつて女に構わぬと答えると、それは事実かと反問した。

    初め予ロンドンにいた夜勝手が分らず、ユーストン街にユダヤ人が営む旅館に入って日夜外出せず。客の間に植物標本を持ち込んで整理し居る内、十七、八の女毎度馴々なれなれしく物言い懸ける。予は植物の方に潜心して返事せぬ事多きに屈せず、阿漕あこぎが浦の度重たびかさなりてそんな眼に逢う。処へその姉と称える二十四、五の女が来て、俗用の仏語で若い女を叱るを聴くと、その男はかつて女に会った事のない奴だ、かれこれと言うだけ無駄と知らぬか、商売柄目がかないにもほどがあるといった。

    翌日から若い女はさっぱり近寄り来らず、それでようやくこのいわゆる姉妹はあだし仇浪浅妻船あさづまぶねの浅ましい世を乗せ渡る曲物くせものとも分れば、かかる商売の女は男子を一瞥いちべつして、たやすくその童身か否かを判ずる力ぐらいは持つものとも知った。しかるに今人天の師とも仰がるる土宜師にそれほどの鑑識もなく、みだりに予の童身を疑うは高僧果して娼婦にしかず。畢竟ひっきょう後白河上皇が仰せられた通り、隠すは上人、せぬは仏で(『沙石集』四の二)、日本に清僧は一疋もなく従って鑑識もその用を要せぬからだ。

    誰も頼まぬ禁戒など守ってそんな僧たちに讃められてからが縁の下の舞いと気が付いたところへ、折よく右のアントニウスの伝を読んで、無妻で通した聖人も人間並みに暮した靴屋も功徳にかわりがないと知って、なるほど穴に居るより、これは一番穴——がはるかましとの断定、その頃来英中の現在文部大臣鎌田栄吉君に、何とも俺のようなむつかしい男にも妻に来る女があるだろうかと問うと、そこはれ鍋にとじぶた、ありそうなものと、三語のじょうにも比すべき短答。

    帰朝して六年めに四十歳で始めて娶ったが二十八歳の素女で、破れ鍋どころか完璧だった。かれ十二分の標緻きりょうなしといえども持操貞確、つくえを挙げて眉にひとしくした孟氏のむすめ、髪を売って夫をたすけた明智あけちの室、筆を携えて渡しに走った大雅堂の妻もこのようであったかと思わるる。殊に予の菌学を助けて発見すこぶる多ければ、今日始めて亭主たるの貴きを知ると満足し居る。

    前年木下(友三郎)博士予の宅に来りこの琴瑟きんしつ和調の体を羨み鎌田に語ると、大分参って居ると見えるといったと『伏虎会雑誌』に出た由。昔上杉憲実うえすぎのりざね遯世とんせいして遠竄えんざんせしを、主人持氏もちうじを非業に死なせた報いと噂するを聞いて、われまた以てしかりとなすと言った。熊楠も破れ鍋、ドッコイ、完璧に逃げられては換えがないから、実際よっぽど参って居ると自白して置く。これを要するにアントニウス伝を読んで廓然大悟し、人の人たる道を踏み切ったは、鎌田文相の独断で教科書に書き入れしめて然るべしだ。

     随分日も永いがこんな脱線を続くるとこの狭い町内の紙価を傾ける道理故一心に猪の話を書き続けよう。天主教は唯一上帝を尊むとは口先ばかりで、実は無類の多神教たり。あたかも仏教に梵教の諸天を入れたごとく、キリスト教に欧州在来の諸神を尊者化して入れたので、ついに年中尊者の忌日を絶やさず、よろずの事物に守護の尊者を欠くなきに至った。

    ヨセフ尊者は大工を護り、グレゴリ尊者は左官を司り、リエナール尊者は監獄、ミケル尊者は麪包パン屋、アフル女尊者は女郎屋、ジュスト尊者は料理屋、ジャングール尊者は悪縁の夫婦を冥加みょうがし、ガウダンス尊者は蠍を除き、ラボニ尊者は妻をしいたぐる夫を殺し、ロマリク尊者は水なき処に水を出しまた癩病を治し、アンヌ女尊者は紛失物をあらわし、オワン尊者は聾を療し、レジュール尊者は肥満を減じ、ボニファス尊者は、痩せ男を肥えしむるなど、諸般の便利備わらぬはなし(サウゼイの『随得手録』三輯三六六頁。コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』各条)。されば事業うまく行かぬ人を、どの尊者に頼んでよいか知らぬ人と呼ぶに及んだ。

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    「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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