田中長三郎

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  • 田中長三郎(たなか ちょうざぶろう)

    田中長三郎(1885〜1976)。大正・昭和期の農学者。
    台北帝国大学農学部、東京農業大学農学部、大阪府立大学農学部等の教授を歴任。

    ミカン科植物、中でも柑橘属の分類研究の世界的権威として米国農務省のウォルター・T・スウィングルと並び称される農学者。現在の柑橘産業に多大な貢献を果たしました。

    1915年5月にウォルター・T・スウィングルが来日して田中長三郎とともに南方南方邸まで訪れて熊楠(1867〜1941)を米国に招聘したい意向を告げたが、熊楠は固辞。代わりに田中長三郎が米国に行くこととなりました。田中長三郎はスウィングルの下で柑橘の研究を行ないます。

    1919年に帰国。田中長三郎は南方熊楠のために南方植物研究所の設立を思い立ち、「南方植物研究所設立趣意書」の草稿をしたため、力を尽くしました。
    しかし、 南方植物研究所は資金が十分集まらず設立できませんでした。



    田中長三郎

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳4)
    当時集めた虫類の標本は欧州を持ち回り日本へ持ち帰ったが、家弟方で注意が足らないため1虫を除いてことごとく虫に食われ粉となってしまった。捨ててしまおうと思ったが、田中長三郎があまりに止めるので、今も粉になったまま保存してある。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳17)
    しかし、小生がもっとも力を入れたのは菌類で、これはもしおついでがあれば当地へ見に下られたく、主として熊野で採った標品が、幾万と数えたことはないが、極彩色の画を添えたものが3500種ほど、これに画を添えていないものを合わせればたしかに1万はある。田中長三郎氏が『大毎』紙に書いたように、世界有数の大集彙である。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳17)
    友人(ただ今九大の農学部講師)田中長三郎氏は、先年小生を米国政府から雇いに来たとき、拙妻は神主の娘で肉食を好まず、肉食を強いると脳が悩みだすため行くことができなかったので、田中氏が雇われて行った。この人の言葉に、日本の今日の生物学は徳川時代の本草学、物産学よりも質が劣る、と。これは強語のようだが、じつに真実の言葉である。むかし、このような学問をした人はみな本心からこれを好んだ。しかしながら、今のはこれで卒業し、また生計の方便としようとだけ心がけるため、落ち着いて実地を観察することにつとめず、ただただ洋書を翻読して聞きかじり学問を誇るだけである。それでは何の創見も実用も挙らないはずである。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳30)
    右の次第で小生は、南隣の主人の無法のために5年来の試験を打ち切らざるを得なくなったので、県知事はじめ友人らが、これはまったく小生が長年あまりに世間とかけ離れて仙人住まいをした結果なので、何とかして多少世間に目立ち、世の人より尊敬され保護されるような方法を講ずるべきだとのことで、協議の末に生まれたのが植物研究所で、その主唱者は拙弟常楠と田中長三郎氏(趣意書の起草者、大阪商船会社、中橋徳五郎氏の前に社長であった人の令息)であった。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳32)
    さて、研究所の主唱者は舎弟常楠と田中長三郎氏の二人であったが、田中氏は大正10年仲春(※ちゅうしゅん:春の3ヶ月の中の月※)、洋行を文部省から命ぜられ米国に渡り、何となく退いてしまわれた。これは今から察すると、舎弟が我欲の強い吝嗇漢で、小生の名前で金を募り集め、それを自分方に預かって利にまわそうとでも心がけて、小生に仕向けていることらしくわかったので、田中氏は退いてしまったことと察し申す。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳38)
    友人で趣意書を書いてくれた田中長三郎氏の言葉に、今日の日本の科学は本草学、物産学などいった徳川時代のものよりはるかに劣っているとのことである。これはもっともなことで、何か問うと調べておく調べておくと申すのみ、実用になる答えをしかねる人ばかりである。小生はこの点においてはずいぶん用意いたしており、ずいぶん世間に役立つことができるつもりでござる。


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