木村駿吉

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  • 木村駿吉(きむら しゅんきち)

    木村駿吉(1866〜1938)。日本海軍の軍属(教授、技師)。
    艦船用無線電信機の開発に貢献。木村駿吉らにより開発された三六式無線電信機は、1903年に海軍で制式採用され、1905年のバルチック艦隊との日本海海戦でその勝利に貢献しました。
    1914年3月に免官。海軍退職後は、日本無線電信電話会社取締役に。

    南方熊楠(1867〜1941)とはロンドンで親しくしています。熊楠が南方植物研究所設立のための資金を求めていたときには、木村駿吉はその話を聞くとすぐさま速達で寄付をしました。



    木村駿吉

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳5)
    むかしロンドンにいて、木村駿吉博士(この人は、木村摂津守といって我が国から初めて使節を送ったとき、福沢先生がその従僕として随行したその摂津守の三男で、無線電信を我が国に創設するときに大きな功績があったことは誰もが知るところである)が拙寓をを訪れたとき、このことを語ったが大いに感心されていた。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳12)
    そして、この2階に来て泊まり、昼夜快談した人に木村駿吉博士などの名士が多く、斎藤七五郎中将(旅順開戦の状を明治天皇御前に注進申した人。この人は醤油を造るために豆を踏んで生活した貧婦の子である。小生と同じく私塾に行って他人が学ぶのを見て覚え、帰って記憶のまま写し出して勉学したという)、吉岡範策(故佐々友房の甥、柔道の達人、ただ今海軍中将である)、加藤寛治鎌田栄吉孫逸仙(※孫文※)オステン・サッケン男爵などその他多い。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳12)
    木村駿吉博士は無双の数学家だが、きわめてまた経済の下手な人である。ロンドンへ来たときはほとんど文無しで予を訪れ、予もご同様のため、仕方なくトマトを数個買ってきて、パンにバターをつけて食べたが旨くなく、いっそ討ち死にと覚悟して、ありったけ出してビールを買ってきて、快談して呑むうちに夜も更けわたり、小便に2階を下りると、下で寝ている労働者がぐずぐず言うから、室内にある尿壷、バケツはもちろん、顔を洗う水盆までにも小便をたれ込み、なお、したくなると窓をそっと開けて屋根へ流し落とす。そのうち手が狂ってカーペットの上に小便をひっくり返し、次第に下の部屋に落ちたので、下の労働者が眠りながらなめたかどうかは知らない。まさにこれは「小便をこぼれし酒と思ひしは、とっくり見ざる不調法なり」。翌朝起きて家の主婦に大目玉を頂戴したことがある。

    一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が100円送られたのこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢であったのだ。まかぬ種は生えぬというが、カーペットの上にまいた黄金水が硬化して100円となったものと見える。


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