ディキンズ

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  • ディキンズ(Dickins, Frederic Victor)

    フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(1839〜1915)。ロンドン大学事務総長。日本文学研究者。
     
    ロンドン大学卒業後、英国海軍軍医将校として幕末の日本へ。駐日英国公使ハリー・パークスの下で働き、帰国後、パークスの推薦でロンドン大学の事務総長となりました。日本文学を研究し、『百人一首』や『竹取物語』『方丈記(熊楠との共訳)』などの英訳を発表しました。

    ディキンズは南方熊楠(1867~1941)より30歳近く年上でしたが、年齢差を越えて二人は友情を結びました。
    熊楠が帰国した後にも文通を通じて交遊を保ち、熊楠が結婚したときにはお祝いとしてダイヤの指輪を贈るほどでした。
    これほどの友情を当時の日本人と西洋人とが結ぶことができたというのは、すごいと思います。



    ディキンズ

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳9)
    そのひとりに当時ロンドン大学総長であったフレデリック・ヴィクトル・ディキンズ氏がいる。この人は幼いときに横浜に来て、東禅寺で茶坊主をしていたことがある。梟勇の資質があってきわめて剛強の人である。後に横浜で弁護士と医師を兼ね、日本の書物とあれば浄瑠璃、古国文学から動植物までも世界に紹介し、日本協会がロンドンに立つに及んでその理事となり、加藤高明氏(その頃の公使)の乾杯辞に答えたことなどがある。

    この人は小生が度々『ネーチャー』に投書して東洋のために気を吐くのを不思議に思い、1日小生をその官房に招き、ますます小生に心酔して、氏が度々出版する東洋関係の諸書諸文はみな小生が多少校閲潤色したものである。なかんずくオクスフォード大学出版の『日本古文』は、『万葉集』を主とし、『枕草子』、『竹取物語』から発句にいたるまでを翻訳したもので、序文に、アトスン、サトウ、チャンバレーン、フロンツとともに小生に翼助の謝辞を述べている。このディキンズ氏の世話で、小生は英国第一流の人に知己が多少あるようになった。『ネーチャー』に出した「拇印考」などは、いま列国で拇印指紋に関する書が出る毎に、オーソリティー(権威)として引用されるものである。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳9
    このディキンズ氏の世話で、小生は英国第一流の人に知己が多少あるようになった。『ネーチャー』に出した「拇印考」などは、いま列国で拇印指紋に関する書が出る毎に、オーソリティー(権威)として引用されるものである。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳11)
    また前述のディキンズのすすめにより帰朝後、『方丈記』を共訳した。『皇立亜細亜協会(ロイヤル・アジアチック・ソサイエティー)雑誌』(1905年4月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人の名を先に載せるのを常としたが、小生の力が巨多なため、小生の名を前に出させ A Japanese Thoreau of the 12th Century, by クマグス・ミナカタおよび F.Victor.Dickins と掲げさせた。

    それなのに、英人は根性が太い、後年、 グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの『方丈記』を収め出版するに及び、誰がしたものかディキンズの名のみを残し、小生の名を削った。しかしながら、小生はかねて万一に備えるため、本文中のちょっと目につかない所に小生がこの訳の主要な作者であることを明記しておいたのを、やはりちょっとちょっと気づかずそのまま出したため、小生の原訳であることが少しも損ぜられずにある。

      先年、遠州に『方丈記』の専門家がいた。その異本写本はもとより、いかなる断紙でも『方丈記』に関するものはみな集めていた。この人が小生に書を送って件の『亜細亜協会雑誌』に出ている『方丈記』は夏目漱石の訳と聞くが、やはり小生らの訳であるのかと問われる。よって小生とディキンズの訳であることを明答し、万国袖珍文庫の寸法から出版年記、出版会社の名を答えておいた。またこの人の手により出たのであろうか、『日本及日本人』に漱石の伝記を書いて、漱石が訳した『方丈記』はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出た、とあった。大正11年1月小生上京中、政教社の三田村鳶魚(えんぎょ)氏が来訪されたおり、現物を見せて誤まりを正した。大毎社へ聞き合わせたところ、漱石の訳本は未刊で、氏が死するとき筐底に留めてあった、と。小生は決して漱石氏が生前にこのような法螺を吹いたとは思わないけれども、我が邦人が今少し海外における邦人の動作に注意されたいことである。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳14)
    このように乞食にならないほどに貧乏しながら2年ばかり留まったのは、前述のロンドン大学総長ディキンズの世話で、ケンブリッジ大学に日本学の講座を設けアストン(『日本紀』の英訳をした人)ぐらいを教授とし、小生を助教授として永く英国に留めようとしたためである。

    南方熊楠の手紙:浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(現代語訳18)
    小生は諸国に15年近く流浪したが、学校などには入らなかった(ロンドン大学の総長ディキンズ氏が非常に同情し、取り立ててくれたため、ロンドン大学には毎度出入りしたが、学校の教授をいささかも受けたことはない。ただディキンズの日本学上の著訳を校訂助言に行ったのだ。そのことは1906年オックスフォード大学出版所刊行『日本古文』の序文でもわかります)。

    南方熊楠の手紙:"南方マンダラ",「不思議」について,その他(現代語訳11)
    これは、英国では、予はずいぶん名高い投書を多くし、今もしているから、必ず後に予の伝記を尋ねられることが起こる。よって面白く綺語を事実に加えて、「新方丈記」1冊を作り(英文)、今度ディキンズに送る。オックスフォードの図書館の石室に収めるのだ。その体はルソーの『自懺篇』に習ったものである。そのうちに出来るから

    南方熊楠の随筆:十二支考 兎に関する民俗と伝説(その6)
    川村の事は只今ただいまグラスゴウ市の版元から頼まれて編み居るロンドン大学前総長フレデリク・ヴィクトル・ディキンズ推奨の『南方熊楠自伝』にも書き入れ居るから外国までの恥さらしじゃ。


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