履歴書(口語訳14)


履歴書(口語訳)

  • 1 宗像三神について
  • 2 父母について
  • 3 和歌山、東京、アメリカ
  • 4 アメリカ,キューバ
  • 5 ロンドンに渡る
  • 6 ロンドンで知り合った人
  • 7 ネーチャー、大英博物館
  • 8 孫文
  • 9 ネーチャー、ノーツ・エンド・キーリス
  • 10 落斯馬論争
  • 11 『方丈記』英訳
  • 12 ロンドンの下宿
  • 13 母と兄
  • 14 大英博物館を離れる
  • 15 帰国
  • 16 和歌山
  • 17 熊野
  • 18 かわいそう
  • 19 幽霊と幻の区別
  • 20 結婚、小畔氏との出会い
  • 21 高野山へ
  • 22 土宜法竜
  • 23 粘菌
  • 24 生きた薬
  • 25 陸生トコロテン
  • 26 青い粘菌
  • 27 僻地、熊野
  • 28 隣人とのトラブル
  • 29 法律が苦手
  • 30 弟の妻
  • 31 梅毒
  • 32 南方植物研究所設立へ
  • 33 寄付金
  • 34 山本達雄
  • 35 媚薬
  • 36 処女を悦ばす妙薬
  • 37 締まりをよくする方
  • 38 実用
  • 39 専門家の弊害

  • 大英博物館を離れる

    大英博物館
    The British Museum Opens / Wootang01

     こんなことで兄の破産のつくろいに弟常楠は非常に辛苦したが、亡父存命中にすでに亡父の1分と常楠の1分を合わせ身代となし、酒造業を開いていたため、兄の始末もたいてい片付けた。しかし、兄の破産の余波が及んだので、常楠が小生に送るべき為替、学資をだんだん送って来なくなった。小生は大いに困って、正金銀行ロンドン支店で逆為替を組み常楠に払わせたが、それもしばらくして断ってきた。

    よってやむを得ず翻訳などをしてほそぼそと暮らしを立て、ときどき博物館に行って勤勉するうち、小生はまた怒って博物館で人を打った。すでに2度までこのようなことがある以上は放ってはおけないとあって、小生は大英博物館を謝絶される。

    しかしながら、アーサー・モリソン氏(『大英百科全書』に伝記がある。八百屋か何かの書記から発奮して小説家となった、著名な人である。今も存命であろう)が熊楠の学才をはなはだ惜しみ、英皇太子(前皇エドワード7世)、カンターベリーの大僧正、もうひとりはロンドン市長であったか、三方へ歎訴状を出し(この三方が大英博物館の評議員の親方であっため)、サー・ロバート・ダグラスがまた百方尽力して、小生はまた博物館へ復帰した。このとき加藤高明氏が公使であった。この人が署名し一言してくれたら事は容易であったはず、よって小池張造氏を経由して頼み込んだが、南方を予よりもダグラスが深く知っていると言って加勢してくれなかった。

    今度という今度は慎んでもらわなければならないといって、小生の座席をダグラス男爵の官房内に設け、他の読書者と同列させなかった。これは小生がまた怒って人を打つのを慮ってのことである。小生はこのことを快からず思い、陳状書をダグラス男爵に贈って大英博物館を永久に離れた。小生は大英博物館へはずいぶん多く宗教部や図書室に物を献納した。今も公衆に見せているだろう。高野管長であった土宜法竜師が来たとき小生が着ていた袈裟法衣なども寄付した。

    ダグラス男爵に贈った陳状書の大意は、日本の徳川氏の世に、賤民を刑するのにも忠義の士(例えば大石良雄)を刑するのにも、等しく検使また役人が宣告文を読まず刑罰を口で宣言した。賤民は士分のものが尊き文字を汚して読み聞かすに足らぬもの、忠義の士はこれを重んじるあまり、将軍の代理としてその言を書き留めるまでもなく、口より耳へ聞かせたのだ。さて、西洋はなにか手を動かすと、発作狂として処分するのが常である(乃木将軍までも洋人はみな発狂して自殺したと思う)。日本人が人を打つにはよくよく思慮して後に声をかけて打つので決して発狂してのことではない。いま予を他の人々と別席に囲ってダグラス男爵監視の下に読書させるのは、これは予を発狂のおそれあるものと見てのことと思う人は多く、予を尊んでのことと思う人は少ないであろうから、厚志は千万ありがたいが、これまで尽力してくれた上はこの上の厚志を無にせぬようにもう当館に出入りしないと言って立ち退き申した。たいてい一代のうち変わったことは暮らし向きから生じるもので、小生はいかに兄が破産したからといって、舎弟が、小生が父から受けた遺産があるのに兄の破産を口実にして送金しなかったのを不幸と思い詰めるあまり、おのれに無礼したものを打ってしまったのだ。

     しかしながら、このことを気の毒がるバサー博士(ただ今英国学士会員)が保証して、小生を大英博物館の分支であるナチュラル・ヒストリー館(生物、地質、鉱物の研究所)に入れ、またスキンナーやストレンジ(『大英百科全書』の日本美術の条を書いた人)などが世話して、小生をヴィクトリアおよびアルバート博物館(いわゆる南ケンシングトン美術館)に入れ、ときどき美術調べを頼まれ少々ずつ金をくれた。このように乞食にならないほどに貧乏しながら2年ばかり留まったのは、前述のロンドン大学総長ディキンズの世話で、ケンブリッジ大学に日本学の講座を設けアストン(『日本紀』の英訳をした人)ぐらいを教授とし、小生を助教授として永く英国に留めようとしたためである。

    それなのに不幸にも南阿戦争(※1899年〜1902年、トランスヴァール共和国及びオレンジ自由国と英国との間に行なわれた戦争※)が起こり、英人はえらいもので、このようなことが起こると船賃が安くても日本船に乗らず高い英国船に乗るという風で、当時小生はディキンズから金を出してもらい、フランスの美術商ビング氏(先年本願寺の売り払い品を見に渡来した人)より浮世絵を貸してもらい、高橋入道謹一(もと大井憲太郎氏の子分、この高橋エドウィン・アーノルド方へ食客に世話したときの珍談はかつて『太陽』へ書いたことがある。アーノルドも持て余していた)という何ともわからぬ喧嘩好きの男を使い売り歩き、買ってくれさえすればおもしろくその画の趣向や画題の解説をつけて渡すことをしたが、これも銭が懐のなかに留まらず、高橋が女に、小生はビールに飲んでしまい、南阿戦争は永く続き、ケンブリッジに日本学講座の話も立ち消えになったから、決然、蚊帳のごとき洋服一枚まとって帰国いたした。外国にまる15年いたのだ。

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    「履歴書」は『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』 (河出文庫)に所収




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