熊野の神詠
里譚に熊野の神がむかし西牟婁郡富田の海辺に鎮座し掛かると波の音が喧しい。それを厭うて山に上ると松籟が耳に障るので、「波の音聞かずがための山籠り、苦は色かへて松風の声」と詠じて本宮へ飛び去ったという。神さえ到る処の不満足を免れず、人間万事思うままに行くものかと、不運な目に遭うごとに紀州人はこの歌を引いて諦めるが、熊野猿ちう諺通り神の歌さえ鄙びたる。
しかし、以前はこの歌ずいぶん知れ渡った物と見え、近松門左の戯曲『薩摩歌』中巻お蘭比丘尼の語に、「苦は色かゆる松風、通り風の吹くように、身にも染まぬ一時恋(いっときごい)」。半二の『時代織室町錦繍』八、「音なう花の宗太郎の妻のおしめは、日外より、云々、いつしかお部屋様々に、苦は色かゆる松風の、世帯嬶とは見えざりし」。『伊賀越道中双六』岡崎の段の初めに、「予の中の苦は色かゆる松風の、音も淋しき冬空や」。
件のいわゆる神詠、また苦は色変ゆる松風なる句はいつごろから物に筆せられおるか。大方の高教を俟つ。熊野神が波と松風の音に困ったちう譚は、『阿毘曇婆沙』に出た優陀羅摩子(うだらまし)の伝に基づいた物らしい。委細は『太陽』二月号〔「猴に関する民俗と伝説」二節〕に載せた。