3 餓鬼に付かれる
【増補】
道中で餓鬼に付かれるということが、もっとも古く見えた文献は、『雲萍雑志』である(『民族』1巻1号157頁)と言われたが、それと予が引用した『本朝俗諺志』(『民族』1巻3号575頁)と、いずれが古いか。ふたつとも予の蔵本にこれを書いた年を記していないので、見当がつかない。
また紀州有田郡糸我坂にこのことがあるということについて、糸我坂は県道で、相応に人通りがある所であると言われたが(『民族』1巻1号157頁)、明治19年、予がしばしばこの坂を通ったころまでは、低い坂ながら水が乏しく、夏に日が上っていくとはなはだしくくたびれ、まことに餓鬼の出そうな所であった。和歌山より東南へ下るのに藤白の蕪坂を越え、日高郡より西北へ上るのに鹿ヶ瀬峠を越えて後、疲れた上でこの糸我坂にかかる。そんな所でしばしば餓鬼が付いたものと見える。
さて、この発作症をダリと呼ぶことも文献に見えないことではない。安永4年に出た近松半二、栄善平、八民平七の戯曲『東海道七里渡』第四段、伊勢亀山の関所を種々の旅人が通るところに、奥州下りの京都の商人が、「なるほどなるほど、仙台へ下った者に相違もあるまい、通れ通れと言うが答えず、体を縮め、大地にどうと倒れ伏す。これは何ゆえと番所の家来がバラバラ立ち寄って、見ると旅人の顔色が変じ、即死と見える、その風情、和田の今起、声をかけ、まてまて家来ども、旅人の急病心得ず、とくと見届け薬を与えよう、イデ虚実を窺いえさせようと、静々と歩み寄り、フウ六脈たしかに揃ったのは、頓死ではよもやあるまい、しかし、この腹が背中へ引っ付いたのは心得ない、オオそれよ、思い当たったことがある、唐土斉の王が死んで餓鬼の道に落ち、人に付いて食事を乞う、四国の犬神と同じ、この病神をさいでの王と号す、俗には餓鬼ともいい、だりともいう、この旅人にも食事を与えればたちどころに平癒しよう、ソレソレ家来ども、飯を与えよ、早く早くと、その身は役所に立ち帰り、窺う間に家来どもがもっそう飯を持って出て、旅人の前に差し置けば、不思議なことに、奇妙なことに、伏せていた病人がゆるぎおき、アア嬉しい、有り難い、このころ渇せし食事にあい、餓鬼道の苦患を助かろうと、すっくと立って、そもそも餓鬼と申すのは、腹はぼてれん太鼓のようで、水を飲もうとよろぼい寄れば、水はたちまち火焔となって、クヮックヮッ、クヮクヮクヮックヮ、クヮクヮックヮクヮ、クヮックヮラクヮクヮ、かの盛切りの飯を取り上げ、一口食ってはあらあら旨い、あら味よやな、落ちていた精力、五臓六腑の皮肉に入って、五体手足はむかしに違わず、鬼もたちまち立ち去る有り様目前に、見る目、かぐ鼻、関所の役人はみなみな奇異に思い、ただ呆れ果てたのだ。和田の今起が声をかけ、コリャコリャ旅人、病気はどうか、ハイこれはこれは、先ほどより急にひだるくなりますと、とんと正気を失いましたが、ただ今ご飯をくだされるとたちまち本性、まったくこれはあなた様方のおかげ、エおありがとうございます、一礼述べて急ぎ行く」とある。
さて、この餓鬼が人に付くということは、仏典にありそうなものと見回したところ、どうもないようだが、やや似たことがある。元魏の朝に智希が訳出した『正法念処経』一六に、「貪嫉心を覆い、衆生を誣枉し、そうして財物を取る。あるいは闘争をなし、恐怖をもって人に迫り、人の財物を侵す。村落、城邑において人の物を脅して奪い、常に人の便を求めて脅して盗みを行おうと欲する。布施を行わず、福業を修めず、良友に近づかない。常に嫉妬を抱いて人の財を貪り奪う。人の財物を見れば、心に悪毒を抱く。衆人がこれを見れば、みな共にこれを指して弊悪の人となす。この人は、身破れて悪道に堕ち、豈陀羅(しだら)餓鬼の身を受ける(豈陀羅は、魏では孔穴といい、義には伺便という)。体中の毛穴から自然に焔が立ち、その身を焚焼し、しん叔迦(しんしゅくか)樹の花盛りの時のようだ(この樹の花は火の塊のように赤いので、これに喩える)。飢渇の火が常にその身を焼くがために、呻き叫び悲しみ叫ぶ。奔突して走り、飲食を求め、自らを救おうと欲する。世に愚人がいて、塔に逆らって行き、もし天廟を見れば順行恭敬する。このような人には、この鬼は手がかりを得て人身の中に入り、人の気力を食らう。もしまた人がいて、房に近づき穢を欲すれば、この鬼は手がかりを得てその身中に入り、人の気力を食らい、自らを活命する。自余の一切は、ことごとく食らうことができない(下略)」と出る。この人の気力を食らうというが、邦俗のいわゆる餓鬼が付くというのに一番近いようだ。