猪に関する民俗と伝説(その21)

猪に関する民俗と伝説インデックス


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     アペルレースの諸画中もっとも讃えられたは嬌女神アフロジテーが海より現じた処で、その髪よりしぼり落す水滴が銀色の軽羅けいら様にその体に掛かる。実に何とも言われぬ妙作だった。コスのアスクレーピオス医聖のびょうに掲ぐるための作で、百タレンツ今の約二十万円をあたいした。アペルレースの人となり至って温良故、アレキサンダー王の殊寵を得た。王かつて勅して自分の画像をアのほかの者が作るを禁じた。王毎度その画場へ来た。

    一日あるひ来りて知りもしないで画の事を種々しゃべくるをアがしずかに制して、今そこに色料を砕き居る小僧に笑わるるから知らぬ事を言いたもうなと言った。王は聞えた怒り性だったが、かく言われても肝癪かんしゃくを起さず。それほどまでも厚くアを重んじた。

    王若い時高名の女嫌いだったが後翻然として改宗し、大好きとなったは初めてパンカステの麗容に目がくらんでからだ。パ、それより王の最愛の妾となり、三千寵幸一身に集まり、明けても暮れても王のよだれを受け続けた。それもそのはず、この女天の成せる玉質柔肌じゅうき態媚容冶たいびようや常倫を絶しる者ほとんど神かと乱れ惑うた。かかる曠世こうせい尤物ゆうぶつを無窮に残し拝ますはアの筆のほかにその術なしとあって、その装束を脱いだ体を画かしめた。

    アその痩せて増すべからず、肥えて減ずべからざる肉付きの妙なるに、心悸臂揺ひようし、茫然自失して筆を落し続け、写生はお流れ、それからちゅうものは日々憂鬱してしん定まらず「浅茅あさぢふの小野のしの原忍ぶれど、余りてなどか人の恋しき」てふ態となる。

    アレキサンダー大王、平生四種の絵具だけで城を傾くるほど高価の画を成すアペルレースも、ただこの一の色をかほど扱いあぐむ心根を不便ふびんがり、さしもわが身よりも惜しんだ寵姫を思い切ってアに賜いし、それ自ら制して名工を励ました力の偉なる、ペルシャ、インドの大敵を蹂躪じゅうりんした武功にまさる事万々とプリニウスが頌讃した。上述の嬌女神海中より出現の霊画は実にアがこのパンカステをモデルとして全力をつくし仕上げた物という。

     アテナイオスの『学者燕談』一三には、当時アテーネ遊君の大親玉フリーネがエレウシスの大祭に髪をさばいておおうたばかりの露身の肌を日光に照らし、群衆瞠若どうじゃくとして開いた道を通って海に入り神を礼し、返って千々に物思う人ほど数の知れざる浜の真砂の上に立ち、その長髪より水をしたたらすを観る者各々アフロジテ神再び誕生したと※(「耒+禺」、第3水準1-90-38)ぐうごした。これをまのあたり目撃したアペルレースがそれをモデルにしてかの図を作ったと記す。

    このフリーネは前に往者おうしゃなく後に来者らいしゃなしといわれた美妓で素性は極めて卑しくあたかも三浦屋の高尾が越後の山中、狼と侶をさんばかりの小舎こやに生まれたごとく(『北越雪譜ほくえつせっぷ』)、ペオチアの田舎で菜摘みを事としたが、転じてアテーネの遊君となってより高名の士その歓を求むる者引きも切らず、一たび肢を張れば千金到り一たびこしうごかせば万宝る。かほど金になる女身を受けて空しく石となった松浦佐夜姫まつらさよひめ愍笑びんしょうせんばかり。

    さればアレキサンダー王テーベスをやぶった時「アレキサンダー王はこの城壁を砕けり、妓王フリーネはこれを再興せり」と銘するだに許されたる、これを修めて旧観に復せしめんと出願したほどの大金持となった。かつて、弁士エウチアスに重罪犯として訴えられた時、その情夫の一人で大雄弁家なるフペリデースに弁護されしもややもすれば負けそうだった。その時フ一計を案出し、フリーネをそそのかしてその乳房をあらわさしめた。これ昔天孫降下ましましし時、衢神ちまたのかみ猿田彦大神長さ七あたの高鼻をひこつかせてあま八達之衢やちまたに立ち、八十万やそよろずの神皆目勝まかって相問を得ず。あめ鈿女うずめすなわちその胸乳むなちを露わし裳帯もひもを臍の下に抑えて向い立つと、さしもの高鼻たちまち参ったと『日本紀』二の巻に出づ。

     玄宗皇帝が楊貴妃浴を出て鏡に対し一乳を露わすを捫弄もんろうして軟温新剥鶏頭肉というと、傍に安禄山あんろくざんが潤滑なお塞上ののごとしと答えた。プリニウス説にロネス島のリンドスなるミネルヴァ神廟にエレクトルム(金と銀と合した物)の小觴こさかずきあり。神女ヘレナの寄附した品でその美しい乳房をモデルに作ったそうだ。

    プラントームの『レダムガラント』にスペイン女の三十相を挙げて、膚と歯と手は白きを要し、目と眉と睫毛まつげは黒きを要し、唇と頬と爪はあかきを要し、胴と髪と手は長きを要しとは、手の長い者は盗みすると日本でいうと違う。それから歯と耳と足は短きを欲し、胸と額と眉間みけんは広きを欲し、上の口と腰と足首は狭きを欲し、しりももふくらはぎは大なるを欲し、指と髪と唇は細きを欲し、乳と鼻と頭は小さきを欲す。一つ欠いてもスペインで真の美人とせぬとある。

    故ハックスレーが説いた通り、ギリシア人スペイン人とも髪も眼瞳も黒くメラノクロイと称する白人中の一類に属するから、その美女の標準も大抵同一なるべく、したがってヘレナの乳は小さかったから小觴のモデルにしたらしい。ヘレナ、大神ゼウス天鵝に化けて、スパルタ王の妻レーダに通じ生ませた娘で、神をねたますばかりの美貌から、一生に二度拐帯かいたいされ、四人の妻となった。トロヤ大合戦もここに起った。

    人物画の大名人ゼウクシス、クロトンのヘーラ女神廟に掲ぐべきヘレナの肖像画を頼まれた時、クロトン最美の処女五人を撰み、一々その最好の相好を取り合せて作ったのが絶世の物だった。もちろん夥しい報酬を獲たがなお慾張って、廟に掲ぐる前に、見料先払いでその画を観せ、大儲け、因ってこの画のヘレナを遊君と綽名あだなしたという。これらでヘレナは滅法界な美女と判り、その乳もよほど愛らしかったと知れる。

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    底本:「十二支考(下)」岩波文庫、岩波書店
       1994(平成6)年1月17日第1刷発行
    底本の親本:「南方熊楠全集 第一・二巻」乾元社
       1951(昭和26)年
    初出:1「太陽 二九ノ一」
       1923(大正12)年1月
       2「太陽 二九ノ四」
       1923(大正12)年4月
       3「太陽 二九ノ七」
       1923(大正12)年6月
    ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
    入力:小林繁雄
    校正:門田裕志、仙酔ゑびす
    2009年8月23日作成
    2009年9月10日修正
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    • 「轂」の「車」に代えて「豬のへん」    282-3
      「やまいだれ+慊のつくり」    291-2
      「髟/胡」    291-3
      「彑/(比<矢)」    294-15
      「けものへん+旱」    299-15
      「けものへん+完」    305-13、305-13、305-14、306-8
      「けものへん+權のつくり」    305-14、305-14、305-15、305-15、305-15、305-15、305-16、305-16、306-1、306-2、306-7、306-7、306-8
      「栩のつくり+中」    331-7、331-13、331-15、332-8、332-15
      「こざとへん+亥」    333-4

    「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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