1908年11月7日
◇11月7日[土] 晴れ
この日より以下28日までの分は、12月23日夜、旅中携帯の記録より写すものである。
朝1時半に野田馬吉に荷を負わせ出立(一分は山崎の山川という牛車に頼む)。 朝来にて橋の下に帽菌 Psilocybe を1つとる。岩田一ノ瀬より鮎川にて昼食、この辺に打ッ手という地があり、人の情けを知らぬ所と昔よりいうとのこと、はなはだ薄情な所だと。
栗栖川に着し紅葉屋に泊まる。前年泊まったときいた寡婦主人は男を拵え家出し、今は澄という18ばかりの娘とその婿の若い男にて営業中である。 澄女は松枝の裁縫の弟子であった。縁先へ来て挨拶する。明朝立つとき、 払い96銭茶代25銭やる。
隣室へ田辺の警察署長が泊まっていた。下女(田辺大勝という大工の娘)がべらべらしゃべくる。
1908年の日記は『南方熊楠日記 (3)』八坂書房 に所収