履歴書(口語訳39)


履歴書(口語訳)

  • 1 宗像三神について
  • 2 父母について
  • 3 和歌山、東京、アメリカ
  • 4 アメリカ,キューバ
  • 5 ロンドンに渡る
  • 6 ロンドンで知り合った人
  • 7 ネーチャー、大英博物館
  • 8 孫文
  • 9 ネーチャー、ノーツ・エンド・キーリス
  • 10 落斯馬論争
  • 11 『方丈記』英訳
  • 12 ロンドンの下宿
  • 13 母と兄
  • 14 大英博物館を離れる
  • 15 帰国
  • 16 和歌山
  • 17 熊野
  • 18 かわいそう
  • 19 幽霊と幻の区別
  • 20 結婚、小畔氏との出会い
  • 21 高野山へ
  • 22 土宜法竜
  • 23 粘菌
  • 24 生きた薬
  • 25 陸生トコロテン
  • 26 青い粘菌
  • 27 僻地、熊野
  • 28 隣人とのトラブル
  • 29 法律が苦手
  • 30 弟の妻
  • 31 梅毒
  • 32 南方植物研究所設立へ
  • 33 寄付金
  • 34 山本達雄
  • 35 媚薬
  • 36 処女を悦ばす妙薬
  • 37 締まりをよくする方
  • 38 実用
  • 39 専門家の弊害

  • 専門家の弊害

     8年ばかり前に、東京の商業会議所の書記寺田という人から問い合わせがあった。インドからチョールムーグラが日本ではけて行く量と価格を問いに来たが、何のことか知った者がいない。貴下はご存知だろうという人がいるため、伺いあげるとのことである。

    これは大風子(たいふうし)といって(大風とは癩病のこと)、むかしより諸国で癩病薬として尊ぶ物である。専門もよいが、専門家が他のことを一向に顧みない風習がもっぱらでであるから、 チョールムーグラといえば何のことと問うと、知った人がちょっといない。

    ポルトガルの専門家へ聞きに行くと、それはポルトガル語ではないといって答えが済む。マレー語の専門家、支那語の専門家に尋ねても、それはマレー語ではない、支那語ではないといって答えが済む。知らないという代わりにそれは予の専門ではないといえば、その学者の答えが済むのだ。

    もしこれが、詳しくなくとも一通りの諸国の語を知った学者がいて、それに問い合わせたなら、それはインド語だとの答えはすぐ出るところだが、そんな人が日本に少ないらしい。さてインド語とわかったところで字書を引いて大風子と訳するとわかって、その大風子はどんなもの、何の役に立つということに至っては、また漢医学家あたりへ聞き合わせないわけにはいかないだろう。いよいよそれが何物であるかを承知しようと思えば植物学者に聞き合わせるのを必要とする。しかし、植物学者は今日支那の本草などは心得ずに済むから、大風子と問うただけでは答えることができず、学名をラテン語で何というか調べて後に問いに来いなどという。

    そのため本邦で、ひとつ何かを調べようと思うと、10人も20人も学者にかけざるをえない。槍が専門なのでといって、向こうの堤を通る敵を見逃しては味方の損である。そのとき下手ながらも鉄砲を心得ておれば、撃ってみれば当ることもあるだろう。小生は何ひとつ詳しいことはないけれど、いろいろかじっているため、間に合うことは専門家より多い場合がないこともない。一生官途にもつかず、会社役場へ出勤もせず、昼夜学問ばかりしたゆえ、専門家より専門のことを多く知ったこともないことはない。

     小生は『大阪毎日』から寄稿を頼まれ、今朝から妻子を養うため、センチ虫の話と庭木の話を書きにかかり申しました。それゆえ履歴書は、これくらいのところで止めにいたします。もしご知人にこの履歴書を伝聞して同情される方があるならば、1円2円でもよろしく、小生は決して私用せず、万一自分一代で事が成らなければ、後継者に渡すので、ご安心して寄付されるよう願い上げます。また趣意書ご入用ならば送り申し上げましょう。ご出立も迫っているので、とても望むことができることとは存じませんが、1口でもあればと存じ願い上げ置きます。

      日本の学者に、小生が呆れるほど、小生よりもまだ世の中のことに疎い人が多い。名を申すのはどうかと思うが原摂祐(かねすけ)というのは岐阜の人で、独学で英、仏、独、伊、拉の諸語に通じ、前年まで辱知(※じょくち:知り合いであることを謙遜していう語※)白井光太郎教授の助手として駒場農科大学にいたが、白井氏の気に合わず廃止となり、静岡県の農会の技手である。この人に2500円あれば、年来研究の日本核菌譜を出版し、内外に分つことができる。しかしながら世の中のことに疎いので今だ資金を出してくれる人がいない。

      小生が何とかして自分の研究所確立の上その資金を出したく思うけれど、今のところ力が及ばず、小生が在京中に申した処女の薬に感心されていた鶴見局長(今は農務次官?)の世話を頼み、啓明会から金を出してもらおうと小生がいろいろ世話したが、氏本人がだいぶん変わった人で、たとえば資金補助申請書に添えて身体診断証を出せといわれると、今日健康でも明日どんな死にあうかもしれず、無用のことである、などと言い張るゆえ、出るはずの金も出してくれない。

      この人が東京に出て来て小生を旅館に訪ねたとき、その宿所を問うたところ、浅草辺だけれど下谷かもしれず、酒屋のある所であるなど、ぼんやりとしたことを言う。こんな人にじつは世界に聞こえている大学者が多い。小生は何とぞこのような人の事業を補成して国のために名を挙げさせたいが、今だ思うだけで力が及ばないのは遺憾です。この人はよほど小生を頼りにしていると見え、前年みずから当地へ小生を来訪されたことがある。

    恐々謹言  

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    「履歴書」は『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』 (河出文庫)に所収




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    @mikumano