履歴書(口語訳33)


履歴書(口語訳)

  • 1 宗像三神について
  • 2 父母について
  • 3 和歌山、東京、アメリカ
  • 4 アメリカ,キューバ
  • 5 ロンドンに渡る
  • 6 ロンドンで知り合った人
  • 7 ネーチャー、大英博物館
  • 8 孫文
  • 9 ネーチャー、ノーツ・エンド・キーリス
  • 10 落斯馬論争
  • 11 『方丈記』英訳
  • 12 ロンドンの下宿
  • 13 母と兄
  • 14 大英博物館を離れる
  • 15 帰国
  • 16 和歌山
  • 17 熊野
  • 18 かわいそう
  • 19 幽霊と幻の区別
  • 20 結婚、小畔氏との出会い
  • 21 高野山へ
  • 22 土宜法竜
  • 23 粘菌
  • 24 生きた薬
  • 25 陸生トコロテン
  • 26 青い粘菌
  • 27 僻地、熊野
  • 28 隣人とのトラブル
  • 29 法律が苦手
  • 30 弟の妻
  • 31 梅毒
  • 32 南方植物研究所設立へ
  • 33 寄付金
  • 34 山本達雄
  • 35 媚薬
  • 36 処女を悦ばす妙薬
  • 37 締まりをよくする方
  • 38 実用
  • 39 専門家の弊害

  • 寄付金

     ご存知かもしれないが、前年原敬氏が首相であったとき、神社合祀の令を出し、所によってこれを強行することがはなはだしく、神社神林を全滅させて私腹を肥やすことが大いに行なわれ、心ある人々はこれ以上にひどく国体を害することはないと申したが、誰ひとり表立ってこれをいう者がなかった。

    そのとき伊勢に生川(なるかわ)鉄忠という神官がいてこのことを論じたが、ただ筆先に止まって何の影響もなかった。小生がこのことを言いだし、代議士中村啓次郎氏に頼み、数回国会に持ち出し、またみずからこれをはなはだしく論議したため、18日間未決監(※みけっかん:刑が確定する前の未決囚を収容する監獄※)につながれたことがあり、その後も止めずにこれを論じ、ちょうど10年めの大正9年に神社合祀は無益とのことを貴族院で議決され申した。

    およそ10年このことに奔走し、7000円という、小生にとっては大きな金を損じ申した。そして神社合祀は無益と議決されたときは、すでに多くの神社が合祀全滅された後で、何の役にも立たないようにだけれど、このために全国に残存している神社は多く、現に当町の神社などは、1,2の他はみな残った。

    さて今日となって、神社へ参りたくても道が遠くて参ることができないなどの事情から田舎の人心を離散させることが、都会で思うよりもはなはだしいものが多く、これが農村疲弊思想濫違の主たる原因となり申している。

    自分の予言の当ったのは、国家が衰運に向かったのと同然で決して喜ぶべきことではないけれども、とにかく国民として言うべきことを言い、憂うべきことを憂いているのは本心において恥じるところはない。研究所の件のようなのも、すでに一度言い出したことは引くべきではない。ましてや数万円の金ができあつまっているのだから。この上どんなに難儀するとも、鉄眼(てつげん)が一切経を翻刻したときの心がけで集金すべく、ずいぶん骨を折り申している

     ずいぶん諸方からいろいろのことを問い合わせに来るのをいちいち丁寧にできる限り返事を出し、趣意書を送って寄付を求めると、10の4,5は何の返事さえくだされないものが多い。つまりこの貧乏な小生に多大な時間と紙筆を空費させるものである。けれども、世には無情の人ばかりでなく、この不景気に、小包郵便は1週間に2度しか扱わないという大和の僻地から、5円贈られた人がいる。

    また水兵で小生と見ず知らずの人なのに、1日50銭の給料を蓄えて10円送られた人もいる。亡父が常に小生の話をしていたと3円送って来て、素焼きの植木鉢のひとつでも買ってくれと申し込まれた少年がいる(植木屋を小生が開業すると勘違いしたのだ)。幸いに命さえ続けば遅かれ早かれこのことは成るだろうと楽しんでおり申す。

     むかし鉄眼は一切経出版のため寄付を集めるのに、阿部野で武士の飛脚らしい者を見、一切経の功徳を説きながら1里ばかりついて行ったが、その人は1文を取り出し地に投げ、私は一切経をありがたく思って寄付するのではない、貴僧の執念が強いのに感心したのだと言い、さて茶屋に腰かけて女のすすめる茶1椀に8文とか10文とか余計に投げ打ったとのこと。鉄眼はこれを見て涙を落とし、合掌して三宝を敬礼し、私の熱心がこのような無惨な男に私に1文を与えさせたのを見て、我が志は他日必ず成就すると知り、喜んで帰ったとのこと。

     『南水漫遊』とかいうものには、鉄眼が庵に夜籠っていると美しい婦女がひとり来て、雪の夜なので歩みが進まず、何とぞ泊めてくれと頼む。どんなに拒んでも、この雪中に死なせるつもりかと言われて、やむを得ずそこに宿させて、子細を聞くと、人の妾であったが本妻の妬みで追い出され、里へ帰る途中で日が暮れ大雪に逢ったと言う。さてその女は終夜身の上を案じ眠れなかったが、もぐさの臭気が絶えず、変なことと思い、ひそかに隣の間を覗くと、鉄眼の一物は 竜雲を得た勢いで脈を打たせ跳ね上がるのを静止しようとして終夜灸を据えているのだ。

    その女は後に本妻が死んで夫の家に帰り本妻となり、このことを夫に話したところ、その夫は大富豪であったため、感心して、その志に報いるために寺を建て鉄眼を置いた、とある。真偽は知らないが、鉄眼の伝にも、某という福家の婦人から大寄付を得て一切経の出版の資金としたことがあるので、何か似通ったことはあるだろうと思う。

    小生はずいぶん名だたる大酒飲みであったが、9年前にこの家を買うため和歌山に上る船中、感冒に感染して肺炎を90日ほど病み、それから酒を止め申したが、近年このことにかかってからは雫も用いない。他の諸事もこれに準じる。一物も鉄眼以上に立派なものであったが、ただ今は毎日失踪届けを出さなければならないほど、あってなきに等しいものになってしまった。

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    「履歴書」は『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』 (河出文庫)に所収




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