人魚の話(現代語訳2)

人魚の話(現代語訳)

  • 1 人魚
  • 2 落斯馬論争
  • 3 ジュゴン
  • 4 人魚の乾物,八百比丘尼

  • 落斯馬論争

     

     今日、学者が人魚の話の起源と認めるのは、ジュゴンといって、インド、マレー半島、豪州などに産する海獣じゃ。琉球にも産し、『中山伝言録』にはこれを海馬と書いている。ただし普通に海馬というのは、水象で牙を具する物で、北洋に産し、カムチャッカの人はその鳴き声によって固有の音楽を作り出したものだが、『正字通』にこれを落斯馬と書いてある。

     十余年前、オランダの大学者シュレーゲルが『通報』紙上に、これはウニコールのことだろうと言ったのを、熊楠が反論し、「落斯馬はノルウェー語ロス・マー(海馬の意味)を直訳したのだ。件の『正字通』の文は、まるで『坤輿外紀』のを取ったのだ」と言ったことから事が起こり、大議論となった末、シュレーゲルが「そのころノルウェー語が支那に知れるはずがない。ゆえに件の文が欧州人の手で成った証拠があれば、熊公の説に服するが、支那人の作ではどうも樺太辺りの語らしい」と言ってきた。

    ずいぶん無理な言い様じゃ。彼はまた自分がウニコール説を主張したことを忘れて、ひたすら語源がノルウェーから出ていないことを主張しようとして、「落斯馬は、海馬は馬に似た物なので「馬らしい」という日本語から出たのであろう」とまことに唐人の寝言を言ってきた。

     我が国では海外の学者を神聖のようにいうが、じつは負け惜しみの強い、没道理の畜生のような根性の奴が多い。これはわが邦人が国内でぶらぶら言い誇るだけで、外人と堂々と抗論する弁も筆も、ことには勇気がないからじゃ。しかし、熊公はなかなかそんなことには屈しない。返答して、

    「日本の語法に「馬らしい」というような言辞は断じてない。しかし「か」の字をひとつ入れたら、お前のことで、すなわち「馬鹿らしい」ということになる。日本は小国といえども、すでに昨年支那に勝ったのを知らないのか。汝は世間に暗くて、ジャパンという独立帝国と、汝の国の領地であるジャワとを混じていないか。書物読みの文盲め。

    次に、人を困らそうとばかり考えると、ますます出る説がますます味噌を付ける。件の文に出ている根本の『坤輿外紀』は、南懐仁の著というと支那人と見えるが、これは康煕帝の寵遇を得たキリスト教宣教師、イタリア人のフェルビーストのことであることを知らないのか。注文通りイタリア人の書いた本に、近国のノルウェーの語が出ているのに、なんと参ったか。『和漢三才図会』に、オランダ人が小便をするとき片足を挙げるのは犬に似ているとあるが、汝はまことに犬根性の犬学者だ。今に人の見る前で交合するだろう」

    と、喜怒自在流の快文でやっつけたところ、「わが名誉ある君よ」という発端で一書を寄せ、「予は君の説に心底から帰伏した」(アイ・アム・コンヴィンスド、云々)という、なかなか東洋人が西洋人の口から聞くことが岐山の鳳鳴より稀な謙退言辞で降伏してきた。予はこれを持って2日ほどの間、何事も放っておいて、諸所に吹聴してまわり、折からロンドンにあった旧藩主侯の耳に達し、祝杯を賜ったことがある。

     3年ほど後に、恵美忍成という浄土宗の学生を、シュレーゲルが世話せよとのことで、予に添書をくれと恵美氏が言うから、「先生は学議に激しくなってついつい失敬したが、まったく真の知識を研くためだから、悪しからず思え」という諸言で、一書を贈ったが、それきり何の返事もなく、恵美氏の世話もしなかったのは、洋人の頑強固執がとうてい邦人の思い及ばないところだ。

    とにかくそれほどパッとやらかした熊楠も、白竜魚服すれば予且の網に罹り、往年三条公の遇を忝なうして、天下に嬌名を謡われた金瓶楼の今紫も、目下村上幸女といって旅芝居に交われば、1銭で穴の開くほど眺められる道理。相良無武(さがらないむ)とか楠見糞長(くすみふんちょう)とか、バチルス、トリパノソマ同前の極小人に陥れられて、18日間も獄に繋がれるなど、思えば人の行く末ほどわからないものはありやせん。しかし、昼夜丹精を凝らし、大威徳大忿怒尊の法というやつを行っているから、まる1年経たないうちに、彼輩は衰弱して行き倒れること受合いである。

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    「人魚の話」は『南方熊楠コレクション〈第3巻〉浄のセクソロジー (河出文庫)に所収。

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