フィラデルフィアの顕微鏡(現代語訳1)

フィラデルフィアの顕微鏡(現代語訳)

  • 1 チューリッヒ市の伝説
  • 2 チューリッヒ市の伝説2
  • 3 カメラ・ルシダ
  • 4 単式顕微鏡

  • チューリッヒ市の伝説

    チューリッヒ
    Zurich / raindog

     大正13年2月15日夜9時前

       上松蓊

     拝啓。1月27日付け御状29日拝受。ちょうどその翌30日午後1時に拙妻の母が死亡(拙妻1月22日朝、和歌山へ参り、27日夜帰宅、それから3日めに死亡したのだ)、和歌山で火葬致し,拙妻の妹夫妻がその骨を持って来て、2月10日に埋葬、12日に和歌山へ帰りました。これらのことのためせつつまがいろいろ取り込み,それがためお返事が遅れ申しました。

     小生は英国で緊急を要する学問上の題目が出て、小生でなければ答えられる者がいない様子なので,ちょっと2週間ばかりかかってしたため、、ようやく一昨日(12日)に出し申した。これはスイス国のチューリッヒ市の中古の伝説で、シャレーマンがフェリッキスおよびレグラ2人の尊者殉教の遺跡に鐘楼を立て鐘をかけ、誰でも免訴あるものはこの鐘をつけば大王自らその訴えを聞き、裁判官に再審させるのを決まりとする。

    しかしながら、諫鼓苔蒸して(※かんここけむして:諫鼓は古代中国で、天子をいさめようとする者に打ちならさせるため、朝廷門外に設けたという鼓。「諫鼓苔蒸す」で、善政によって諫鼓をならす必要がなく、鼓に苔が生える意。世の中がよく治まっているたとえ。※)鶏驚かずの例で、誰も免訴の者がないほど太平であったのか、この鐘の下に蛇が住み子を生む。ある日天気よいので母子連れて散歩に出る。帰ってみるとヒキガエルがその巣を横領している(ご存知のように欧米では古今ヒキガエルを大毒物として憎むのだ)。

    蛇はどうすることもできず、その鐘を鳴らし大王自ら訴えを判じ、これはヒキガエルがよっぽど悪いということで兵士を召してヒキガエルを誅戮する。その礼として蛇が玉を持って来て王に献上する。この玉を持つものの一身に王の寵愛が集まるはずで、大王はこの玉を后に与えると、それからというものは大王は后を愛することはなはだしく,他の諸姫妾はことごとく非職となった。

    後年、后が病んで崩ずるに臨み、もしこの玉が他の女に伝わることがあらば大王はまたその女を后に立て自分のことは忘失されてしまうだろうと思って、その玉を舌の下に隠して崩じた。さて、大王は后の屍をマンミーに作り一度は埋めたが、何とも思い切れず、またこれを掘り出して自分の部屋に18年の長い間,安置して朝に夕にこれを抱く。

    召使いの少年が不審に堪えず、いろいろ考えて后の屍を捜すと舌の根に件の玉がある。これを盗み持つとそれから大王の寵愛がこの少年に集まり,后の屍には少しも見向かない。普段常にこの少年を愛することはなはだしく、少年も追々年は取るが,元服も許されず、毎夜毎夜後庭を弄ばれるのがうるさくなり、ついに温泉のかたわらにある沼沢に玉を捨てると、それから大王はまたその沼沢を好むことはなはだしく片時もその辺を去らず、ついにアーヒェン Aachen 市をその沼に建てて永住した、という話で、ベンスリー教授がこの話のもとを12月15日の『ノーツ・エンド・キリース』で論じたが,十分にはわからないらしい。

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    「フィラデルフィアの顕微鏡」は『南方熊楠コレクション〈第5巻〉森の思想』 (河出文庫) に所収。

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