浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(口語訳14)


浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(口語訳)

  • 1 浄愛と不浄愛
  • 2 上婚下婚
  • 3 男色
  • 4 宦者
  • 5 妹尾官林で山ごもり
  • 6 川又官林へ
  • 7 二人の美少年
  • 8 美少年との別れ
  • 9 変態心理
  • 10 二人の美少年の妹ら
  • 11 粘菌と涅槃経
  • 12 相似
  • 13 美少年の妹ら
  • 14 美人王子
  • 15 粘菌学進講の前に
  • 16 わが思いの貴婦の一念
  • 17 浄の男道
  • 18 その世の人となる
  • 19 複姓
  • 20 粘菌学進講の後に
  • 21 幻像
  • 22 友愛

  • 美人王子

     それに次いで昨日電話をやっておいた山田の従兄も来る。他に山田の叔母とその姑婆も来る(昨日小生が間違えて門に立った分家のもの)。一族そろって羽山の旧宅へ行く。6男2女のうち、2女は山田、中川へ嫁ぎ、第四男芳樹というのがひとり残っている。妻は去年子なしに死亡したと。

    この芳樹は小生渡米のとき6歳、その年、3歳の次弟(五男)とカエル1匹を争ってその頭を殴り大騒ぎしていたのを、小生が持ち合わせていたおもちゃを与えて静めたことがある。それが今は50歳になっている。無沙汰の挨拶をして、その兄たちの在世中のことをいろいろ聞き取る。44年前に山田の妻が生まれる騒ぎに寝られず、海と月と松とを眺め通した2階の窓もそのままある。
      かくまでもかはり果てたる世にわれを松風のねのたえぬ嬉しさ

     その夜眺めた松たちは千歳の色を少しも変えず、颯々の音を立てている。『源氏物語』に明石の尼公の「身をかへて独り帰れる故郷に聞きしに似たる松風ぞ吹く」とあるのに基づく。

     それからいよいよ美人王子の社に一同伴って詣でる。こんな田舎までもいわゆる文化が及び、」むかしあった神林を伐り尽くして牡丹桜とかコスモスとか花屋敷的なものを植えたのは、松風村雨の潮汲み姿の代わりに海水浴姿の女を立たせたようであまり面白くない。此の朝、海辺一面に霧が立ち、この社畔の眺望を遮る。44年前、山田妻の長兄が小生を天田の渡しまで未明に送りに来て霧のなかで別れたときのことを思い出して、
      忘るなよとばかり言ひて別れてしその朝霧のけさぞ身にしむ

     あり合わせた紙に書き付けて彼女の第四兄に渡し、まず長兄の霊前に行って供えさせた。それからその宅に行き、一緒に写真撮影。この写真は小笠原誉至夫(よしお)氏(現存する小生の最旧友のひとり。かつて国会へ馬糞を投げたり、鳥尾得庵を殴りに行ったり、相場師になったり、いろいろと変わって今も和歌山で健在)が一昨年、御臨幸の前に『大阪毎日』紙へ出し、まことに立派な一族団らんであると世評があった。

      この小笠原は才物で、小生が大伝馬町の保証人方へ学資1ヶ月分を受けに行って帰ると、後ろからいつもと違って丁寧に話しかけて来る。気味が悪いので、本町の薬肆どもの前を一目散に走り出すと、たちまち大声で「スリだー、スリだー」。薬店の小僧らが出て来て、そのころ店で使っていた勇み肌の熊公、金さんなど、ふてい奴だ、この野郎と、小生の胸ぐらをとりすえた。小生は 服で、彼は吉原通いの美装なため、スリと見られるのも異論はない。逃げる奴を「スリだ」と呼んで止めるのは話は何か落語の本に出ているとのこと。

      ここで小笠原はその落語をかねてから聞いていて当場に応用したのか、自分の才幹でその場で案出したのかという疑問が起こる。小生は両可説を唱えたい。小笠原ほどの才物にはそれくらいの考えはいつでも湧出するだろう。それと同時に毎度寄席などへ行った人なので、そんな話は脳裏にしみ込んでいたのであろう。当人に聞いてみなければどちらが真実かわからない。

      これと等しく、やれ『古事記』のこの文はエジプトを模倣したとか、『伊呂波文庫』のその話は南アフリカから渡ってきたとか、日本からは何ひとつ外国へ渡さず、始終遠近の外国から伝授だけしていたようにとくのはどうであろうか。そのようなことならば、日本人は(ずいぶん古い遺物製品を所蔵しながら)昨日生まれた犬の子のように、何ひとつ自分の持ち物なしに数千年を経たこととなる。世にこのような理があろうか。

     写真撮影を終えて中川の妻は、夫が大阪へ旅立つからといって辞し去るに臨んで、また何かと望まれる(この女の名は上述のようにお末)。
      中川の末永かれと祈るなり

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    「浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他」は『南方熊楠コレクション〈第3巻〉浄のセクソロジー (河出文庫)に所収




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