兎に関する民俗と伝説(その4)

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     上述のごとく兎は随分農作を荒らしその肉が食えるから、兎猟古くより諸国に行われた。『淵鑑類函』四三一に※(「栩のつくり/廾」、第3水準1-90-29)こうげい巴山に猟し大きさうさぎうまほどなる兎を獲た、その夜夢に冠服王者のごとき人が、※(「栩のつくり/廾」、第3水準1-90-29)にいうたは我は※(「宛+鳥」、第4水準2-94-24)扶君えんふくんとしてこの地の神じゃ、汝我を辱めた罰としてまさに手を逢蒙に仮らんとすと、翌日逢蒙※(「栩のつくり/廾」、第3水準1-90-29)しいして位を奪うた。今に至ってもその辺の土人は兎をらぬと見え、また後漢の劉昆弟子常に五百余人あり、春秋の饗射ごとに桑弧そうこ蒿矢こうしもて兎の首を射、県宰すなわち吏属を率いてこれをたとあり、遼の国俗三月三日木を刻んで兎としくみを分けて射た、因ってこの日を陶里樺とうりか(兎射)と称えたとづ。これは兎害を厭勝まじないのため兎を射る真似をしたのだろ。

    天主僧ガーピョンの一六八八より一六九八年間康煕帝の勅を奉じ西韃靼だったんを巡回した紀行(アストレイ『新編紀行航記全集ア・ニュウ・ゼネラル・コレクション・オヴ・ウオエージス・エンド・トラウェルス』巻四、頁六七六)に帝が露人と講和のため遣わした一行がカルカ辺で兎狩した事を記して歩卒三、四百人弓矢を帯びて三重に兎どもを取り巻き正使副使と若干の大官のみ囲中に馬をせて兎を射、三時間足らずに百五十七疋取った。

    兎雨と降る矢の下に逃げ道をもとめ歩卒の足下をくぐり出んとすれば歩卒これを踏み殺しまた蹴り戻す、あるいは矢を受けながら走りあるいは一足折られ三足でのがれ廻る、囲中また徒士立ちて大なる棒また犬また銃を用いて兎の逃げ出るを防いだとあって、兎狩も大分面白い物らしいが、熊楠はこんな人騒がせな殺生よりはやはり些少さしょうながら四、五升飲む方がずっと安楽だ。

    文政元年より毎年二月と九月に長崎奉行兎狩に託して人数押にんずおさえを行うた由(『甲子夜話』六四)、いずれそれが済んだ後で一盃飲んだのでしょう。

    『類函』四三一に〈『張潘漢記』曰く梁冀りょうき兎苑を河南に起す、檄を移し在所に生兎を調発す、その毛を刻んで以てしるしと為す、人犯す者あれば罪死に至る〉、何のためにかくまで兎を愛養したのか判らぬ。英国でもゼームス二世の時諸獣の毛皮を着る事大流行じゃったが、下等民も御多聞にれずといってちゃんはなし兎の皮を用いたので、ロンドン界隈かいわいは夥しく兎畜養場が立ったという(サウシ『随得手録コンモンプレース・ブック』一および二)。

     『礼記』に兎を食うに尻を去ると見ゆるは前述異様の排泄孔などありて不潔甚だしいかららしい。兎肉の能毒について『本草綱目』に種々述べある。陶弘景は兎肉を羹とせば人を益す、しかし妊婦食えば子を欠唇ならしむと言うた。

    わが邦でも『調味故実こじつ』に兎は婦人懐妊ありてより誕生の百二十日の御祝い過ぐるまで忌むべしと見ゆ。スウェーデンの俗信ずらく、木にくさびを打ち込んで半ば裂けた中に楔を留めた処や兎の頭を見た妊婦は必ず欠唇の子を生むと、一体スウェーデン人はよほど妊婦の心得に注意したと見えて妊婦が鋸台の下を歩けば生まるる子の喉が鋸を挽くように鳴り続け、斑紋ある鳥卵を食えば子の膚※(「米+慥のつくり」、第3水準1-89-87)あらくて羽を抜き去った鶏の膚のごとし、豚をさわれば子が豚様にうめき火事やきずある馬を見れば子にあざあり、人屍の臭いを嗅げば子の息臭く墓場を行くうち棺腐れ壊れて足を土に踏み入るれば生まるる子癲癇持てんかんもちとなるなど雑多の先兆をつらねある(一八七〇年版ロイド『瑞典小農生活ビザント・ライフ・イン・スエデン』九〇頁)。

    しかし母が妊娠中どうしたら南方先生ほどの大酒家を生むかは分らぬと見えて書いていない。一六七六年版タヴェルニエーの『波斯ペルシア紀行』には拝火ゴウル教徒兎と栗鼠りすは人同様その雌が毎月経水を生ずとて忌んで食わぬとある。果して事実なりや。

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    「兎に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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