馬に関する民俗と伝説(その40)

馬に関する民俗と伝説インデックス

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  • (付)白馬節会について

  • (心理7)



     欧州古来もっとも高名な演芸馬しばいうまは沙翁と同時のスコットランド人バンクスに使われたモロッコだろう。この馬また蹄で地を敲きて嚢中の銭や骰子目さいのめを数えて、主人が名ざす人に物を渡し観客中からもっとも女好きな紳士を選び出し、後足二本で立ったり跳ねたり踊ったり、一六〇〇年バンクスを載せてロンドンのセントポール伽藍の屋頂を越えたという。

    これは多分桟敷さじきから階子はしご乗りをしたんだろう。その頃の笑話にその時群集仰ぎ視る者夥し。ある人堂内にありしに僕走り来て出で見よと勧めると、下にかく多く驢あるを見得るからわざわざ足を運んで上の馬一匹見るに及ばずと即答したと。驢は愚人の義だ。

    バンクス仏国に渡り人気を集めんとてこの馬は鬼が化けたところと言い触らしたが、衆これを魔の使と罵り焼き殺さんとしたところ、早速の頓智とんちで馬に群衆中より帽に十字を帯びた一人を選んで低頭跪拝きはいせしめ、魔使ならこんな真似をせぬはずと説いて免れたという、その前後馬が芸をして魔物と疑われ火刑を受けた例少なからぬ。

    騎馬で愛宕の石段登るを日本でむるが、外国には豪い奴もあって、一六八〇年一人白馬に騎り、ヴェニースの埠頭からサンマルコ塔の頂まで引っ張った六百フィート長い綱を走り登る。半途でとまって右手に持った鎗を下げ左手で旗を三度振って宮廷を礼し、また走り登って鐘塔に入り徒歩で出で最高の絶頂に上り、金の天使像に坐って旗を振る事数回、鐘塔に還って騎馬しふたたび綱を走り降った(ホーンの『机上書テーブルブック』五四〇頁)。

    プリニウスはシバリス城の軍馬いつも音楽に伴れて踊ったといい、唐の玄宗は舞馬四百を左右に分ち※(「糸+肅」、第3水準1-90-22)衣玉飾して美少年輩の奏楽に応じて演芸させた由。その他馬が楽を好んで舞いまた香を愛する事しばしば見ゆ(バートンかつてアラブ馬が女人に接したまま身を清めぬ主人を拒んで載せぬを見たという)。

    仏教の八部衆天竜夜叉やしゃの次に、乾闥婆カンダールヴァあり最末位に緊那羅きんならあり、緊那羅(歌楽神また音楽天)は美声で、その男は馬首人身善く歌い、女端正好く舞い多く乾闥婆の妻たり。香山の大樹緊那羅王瑠璃琴を奏すれば、一切の大衆仏前をもはばからず、覚えず起ちて舞い小児同然だったという。

    乾闥婆は食香また尊香と訳し天の楽神で宝山に住み香を守る。天神楽をさんと欲せば、この神の相好たちまち反応変化し自ら気付いて天に上り奏楽す。また能く幻術てじなを以て空中に乾闥婆城(蜃気楼)を現ず。

    梵教の伝に、この神帝釈インドラ財神クヴェラに侍属し水と雲の精アプサラスを妻とし、女を好み婦女を教え婚姻を司り日神の馬を使う。ヒンズ法に男女法式に拠らず即座合意の結婚を乾闥婆と称え、ヒマラヤ地方の諸王の妻で、后より下、妾より上なるをもかく呼ぶ。乾闥婆が馬や驢に基づいて作られた神たるはグベルナチス伯の『動物譚原ゾーロジカル・ミソロジー』に詳論あり。好んで妓楽を観聴し戒緩だった者この楽神に転生す、布施の果報で諸天同様楽に暮すと仏説じゃ。

    吾輩随分田舎芸妓に御布施をし置いたから、乾闥婆に転生うまれかわりは請合うけあいで何がさて馬が似るちゅうのが楽しみじゃ。インドまた香具売り兼幻師てじなし軽業師かるわざしで歌舞乞食しあるき、その妻女艶美でしばしば貴人に御目留まる賤民乾闥婆と呼ばるるあり。

    ヴォルテールいわく、『聖書』に神自身を模して人を作ったと言うは大法螺おおぼらで、実は人が自身をまねて神を作ったんじゃと。おもうに昔乾闥婆部の賤民が香具売り以下の諸業を以て乞食するに、たびたび馬を教えて舞い踊らせたから、その守護神を馬形としてまた乾闥婆と名づけ、香や楽や婚姻の神としたのでかかる賤民の妻が婚式を助くる事今もインドその他に多き上に、馬驢はその陰相顕著故これを和合繁殖の標識とせる事多し。

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    「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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