馬に関する民俗と伝説(その31)

馬に関する民俗と伝説インデックス

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  • (付)白馬節会について

  • (性質6)


     プリニウスの『博物志ヒストリア・ナチュラリス』巻八章六六にいわく、馬は十一月孕み、十二月に産む(『淵鑑類函』に『春秋考異郵』を引いて、〈月精馬と為り、月数十二、故に馬十二月にして生む〉というは、東西月の算えようがちがうのだ)。

    春分を以て交わる、とも二歳でく交われど、二歳以上で交わる方強い駒を産む、牡は三十三歳まで生殖力あり、かつて四十まで種馬役を勤めた馬あったが、老いては人に助けられて前体を起した。けだし馬ほど生殖力の限られた動物まれなり、故に時を定めてのみ遊牝せしむ云々。

    熊楠いわく、米国インジアンまたこの類で、他の諸民族に比し、交会の数甚だ少なしとしばしば聞く。プリニウスいわく、馬は年に十五度も遊牝しあたわずと。

    熊楠いう、十五度は多過ぎる、前に春分を以て交わるといったでないか、日本でもその通りと見え、内田邦彦氏の『南総俚俗』に、世の始めに諸動物神前に集まり性交について聞く、神、誰は年に一期、彼は年に二期と定むると、皆かしこみて去った。次に馬神前に進む、神、汝は年にただ一期と言いもあえず馬怒りて神の面を蹴る、次に人、神前に出ると、神、馬に蹴られてうるさく思い、汝ら思うままに行えと言って奥に隠れた、爾来人間のみは、時を選ばず無定数に行うとある。

     プまたいわく、牝馬は四十歳まで年々駒を産み得るも、※(「髟/宗」、第4水準2-93-22)たてがみを苅らば性慾ゆ。その子を産むに当っては直立す。新産の駒その生母を失えば同群中新たに産せし牝馬その世話をする(熊楠いわく、猫もこれと同じきはロメーンズも言い、予みずから幾度も見た)。駒生まれて三日間土に口を触るる能わず、悍の強いほど、水を飲むに鼻を深く浸す。シジア人は牡よりも牝馬を軍用した、そは能く尿しながら進行するからだと。

    またいわく、アゼンスに八十まで生きた騾あり、かつて堂を建つる時この老騾を免役したが、自ら進んでその工事を助けたから城民大いに悦び、議定してどの家の穀を食うとも追い払う事なからしめたと。『朝野僉載ちょうやせんさい』に、徳州刺史張訥之の馬、色白くてねりぎぬのごとし、年八十に余りて極めて肥健に、脚はやく確かだったとある。

    日本にも、源範頼みなもとののりより肥後の菊池の軍功を感じ、虎月毛を賜う、世々持ち伝え永禄年中まで存せり、その頃大友義鎮よししげ、武威九州に冠たり、菊池これと婚を結び、累世の宝物を出し贈る、この馬その一に居る、義鎮受けて筑後の坂東寺村に置き、田を給し人を附けて養う、後久留米秀包くるめひでかね、その辺を領し食田を増給せしに、文禄中五百歳で死す、郡民千余人葬いの行粧して、野に出で弔いし(『南海通記』二十一)、まずは馬中の神仙じゃ。

     馬の話をするととかく女の事を憶い出す。女にも寿かつ美な者もありて、『左伝』に見えた鄭穆公ぼくこうむすめ夏姫は陳太夫御叔が妻たり、六十余歳にして、晋の叔向に再嫁して子を生めり。

    『列女伝』に、〈夏姫内に技術をさしはさむ、けだし老いてまたさかんなる者なり、三たび王后となり、七たび夫人となり、※(「危」の「卩」に代えて「矢」、第4水準2-82-22)こうこうこれを争い、迷惑失意せざるはなし、あるいはいわくおよそ九たび寡婦とならば、これに当る者すなわち死すと、左氏載するところ、これに当る者すでに八人〉と見えしごとく、数の夫に会いて百歳に及ぶまでなお非行をしける者なり、これ閨中に術あるに因ってなり。

    宇文士及が『粧台記』の序にも、〈春秋の初め、晋楚の諺あり、曰く夏姫道を得て鶏皮三たびわかし〉と見えしも、老いて後鶏皮のごとく、肌膚のこわくなるは常の習いなるに、夏姫は術を得て、三度まで若返りたるという事なり(『類聚名物考』一七一)。仏典に名高い得叉尸羅たくしゃしら城の青蓮尼、十七世紀に久しく艶名をせた、仏国のニノン・ド・ランクローなど、似た事だが話が頗長すこながと来るから惜しい物だがやめて置く。

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    「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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