虎に関する史話と伝説民俗(その9)

虎に関する史話と伝説民俗インデックス

  • (一)名義の事
  • (二)虎の記載概略
  • (三)虎と人や他の獣との関係
  • (四)史話
  • (五)仏教譚
  • (六)虎に関する信念
  • (七)虎に関する民俗
  • (付)狼が人の子を育つること
  • (付)虎が人に方術を教えた事

  • (史話2)



    この事については熊楠いまだ公けにせぬ年来の大議論があって、かつて福本日南大英博物館ブリチシュ・ミュジユムで諸標品について長々しく説教し、日南感嘆して真に天下の奇才と称揚されたが、日本の官吏など自分のきたない根性から万事万物汚く見る故折角の名説も日本では出し得ず、これを公にすると直ぐに風俗壊乱などとやられる。

    ここばかりに日が照らぬからいずれ海外で出す事としよう、とにかく眼で数で測り得る体格上でさえ人間の己惚れから観察に錯誤ある事ミヴワートの説のごとし、まして他の諸動物の心性の上に至っては近時まで学者も何たる仔細の観察をまるでせなんだ、これは耶蘇ヤソ教で人は上帝特別の思召しもて他の諸動物と絶えて別に創作された物といい伝えたからで、それなら人と諸動物と業報次第輪廻りんね転生すと説く仏教を奉じた東洋の学者は諸動物の心性を深く究めたかというと、なるほど仏教の経論に多少そんな論もあるが、後世の学者が一向気に留めなんだから何の増補研覈けんかくするところなかった、人と諸動物の心性の比較論はなかなか一朝にして言い尽すべきでないが、諸動物中にも特種の心性の発達に甚だしく逕庭がある、その例としてラカッサニュは犬が恩をおぼゆる事かくまで発達しおるに人の見る前で交会して少しも羞じざると反対に、猫が恩を記ゆる事甚だ少なきに交会の態を人に見する事なきを挙げた。

    ただし猫のうちにも不行儀なもあって、予は英国で一回わが邦で二回市街で人の多く見る所で猫が交わるを見た。また貝原益軒は猫の特質として死ぬ時の貌いかにもみぐるしいから必ず死ぬ態を人に見せぬと言って居る。猫属の輩は羞恥という念に富んでいるもので、虎や豹が獣を搏ち損う時は大いに恥じた風で周章あわてて首をれて這い廻り逃げ去るは実際を見た者のしばしば述べたところだ。『本草』にも〈それ物を搏ち三躍してあたらざればすなわちこれを捨つ〉と出づ。

    獣の中には色々変な心性の奴もあって大食獣グラットンとていたちと熊の類の間にあるものは、両半球の北極地に住み幽囚中でも肉十三ポンドすなわち一貫五百七十二もんめ余ずつ毎日食う、野にあるうちはどれだけ大食するか知れぬ至極の難物だが、このものの奇質は貯蓄のため食物を盗みまた自分の害になる係蹄わなぬすみ隠すのみか、猟師の舎に入って毛氈鉄砲薬鑵やかん小刀その他一切の什具を盗み去って諸処に匿すのだ、これらは食うためでないからただただ好奇心から出る事と知らる(ウット『博物画譜イラストレーテット・ナチュラル・ヒストリー』巻一、『大英類典エンサイクロペジア・ブリタニカ』十一版、巻十二)。言わばこの獣は人間に窃盗狂クリプトマニアに罹ったように心性が窃みの方に発達を極め居るのだ。

    因って想うに虎や獅や米獅は時として友愛の情が甚だ盛んな性質で、自分を助けくれた人を同類と見做し、猫や梟同前手柄自慢で種々の物を捉えて見せに来る、特に礼物進上という訳でないが、人の立場から見るとちょうど助けやった返礼に物を持ち来てくれる事となるのだろう。

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    「虎に関する史話と伝説民俗」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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