猴に関する伝説(その20)

猴に関する伝説インデックス

  • 概言1
  • 概言2
  • 性質
  • 民俗1
  • 民俗2

  • (民俗1の4)



     『ラーマーヤナ』は誰も知った通りヒンズー教の二大長賦の一つで、ハヌマン猴王実にその骨髄というべき活動を現わす。この長賦の梗概こうがいは大正三年二月十日の『日本及日本人』、猪狩史山氏の「ラーマ王物語」を見て知るべし、余も同年八月の『考古学雑誌』に「古き和漢書に見えたるラーマ王物語」を載せた。迦旃延子かせんねんしの『※(「革+婢のつくり」、第4水準2-92-6)婆沙びばしゃ論』に、羅摩那(ラーマーヤナ)一万二千章あり、羅摩泥(ラーヴァナ)私陀(シタ)をち去り羅摩(ラーマ)還って将ち来るに一女の故に十八がい[#「女+亥」、82-4](今いう百八十億)の多数を殺し、また喧嘩けんかの事ばかり述べあるは至極詰まらぬとあるより、日本の僧侶など一向歯牙しがにも掛けなんだらしいが、それは洋人が、『古事記』『日本紀』を猥雑わいざつ取るに足らぬ書と評すると一般で、余が交わった多くのインド学生中には羅摩の勇、私陀の貞、ハヌマンの忠義を語るごとに涙下る者少なからぬを見た。

    今ジュボアの書等より採って略述する。文中人名に漢字を当てたは予の手製でなく実に符秦の朝に支那に入ったカシュミル国の僧伽跋澄の音訳に係る。いわく、羅摩(ラーマ)はアヨジ国王ダサラダが正后カウサリアに生ませた子で、初め林中に瞿曇仙に師事した時、上に述べた通りこの仙人その妻アハリアの不貞を怒り、詛うて石に化しあったのを羅摩足で触れて本形に復せしめた。

    それからミチラ国王ジャナカをおとない、シワ神が持った弓あっていずれの国王もこれをき得ずと聞き、容易たやすくその弓を彎き、その賞として王女私陀(シタ)をめとったところを、父王より呼び還され政務を譲らる。一日弓を彎いた弦音つるおと以てのほか響いてかたわらにあった姙婦を驚かせ流産せしめ、その夫の梵士怒って、爾今じこん、羅摩、庸人ようじんになれと詛う。それより羅摩生来の神智を喪う。

    その後ほどなく父王の第四妃その生むところの子を王にぎ立てしめんとて、切に羅摩に退位を勧め、羅摩承諾して、弟、羅史那(ラクシュマナ)と自分の妻私陀を伴い林中に隠る。一日羅摩の不在中、羅史那スルパナカの両耳を切り去る。これは楞伽(ランカ、今のセイロン)の鬼王羅摩泥(ラーヴァナ)とて、身体極めて長大に十の頭ある怪物の妹なり。

    羅摩泥、妹がために返報せんと、私陀をかすめ去る。羅摩帰って妻を奪われしと知り、地にたおれて慟哭どうこくこれを久しゅうしたが、かくてやむべきにあらざれば、何とか私陀を取り返さんと尋ね行く途上、猴王スグリヴァ、その児ヴァリと領地を争い戦うを見、そのためにヴァリを殺す。猴王大いに悦び力を尽して羅摩を助く。羅摩誰かを楞伽りょうがに使わし、敵情を探らんと思えど海を隔てたれば事容易たやすからず。

    この時スグリヴァ猴王の軍を督せしハヌマン、身体極めて軽捷けいしょうで、たちまち海上を歩んでかの島に到り、千万苦労してようやく私陀が樹蔭に身の成り行きを歎くを見、また、その貞操を変ぜず、夫を慕い鬼王をののしるを聴き、急ぎ返って羅摩に報じ、その請に応じて、山嶽、大巌を抜き、自分の身上にあるだけの無数の石をかかげて幾回となく海浜に積み、ついに大陸と島地の間にけ渡した。羅摩すなわち猴軍を先に立て、熊軍をこれに次がせて、新たに成った地峡を通り、楞伽城を攻め、勝敗多回なりしもついに敵を破って鬼王をちゅうし、私陀を取り戻し、故郷へ帰った。

     竜樹菩薩の『大智度論』二三に問うて曰く、人あり無常の事至るをみ、うたた更に堅く著す、国王夫人たる宝女地中より生じ、十頭の羅刹らせつのために大海を将ち渡され、王大いに憂愁するを智臣いさめて、王智力具足すれば夫人の還るは久しからざる内にあり、何を以て憂いをいだかんと言いしに、王答えて我が憂うる所以ゆえんは我が婦を取り還しがたきをおもんぱからず、ただ壮時の過ぎやすきを恐ると言いしがごとしとあり。

    これは『羅摩延』(ラーマーヤナ)の長賦に、私陀実は人の腹から生まれず、父王子なきを憂い神に祈りて地中より掘り出すところ、その美色持操人界絶えて見ざるところとある故宝女といい、古インド人はセイロンの生蕃を人類と見ず、鬼類として羅刹と名づけた。十頭羅刹とはその酋長が十人一組で土人を統御し、それが一同に羅摩の艶妻を賞翫せんとて奪い去ったのであろう。王の智力もて夫人を取り戻すは成らぬ事にあらずというに答えて、ついには取り戻し得べきも、その間にわれも夫人も花の色の盛りを過ぎては面白い事も出来ぬでないかと羅摩の述懐もっとも千万に存ずる。それを散ればこそいとど桜はめでたけれ、浮世に何か久しかるべき、と諦め得ぬ羅摩の心を愚痴の極とし、無常の近づき至るほどいよいよ深く執著する者に比したのだ。

    back next


    「猴に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

    Copyright © Mikumano Net. All Rights Reserved.