猴に関する伝説(その12)

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     世に猴智慧というは『甲子夜話』続二一に、四国の猴は余国よりは小さくして舞伎を教えて能く習う、因って捕え他国へも出して利を得るとぞ。この猴に器用なると不器用なると二品あり、不器用なるは芸をす事能わざる故選びに念入る事の由、その選ぶ術は、まず一人をるべきほどの戸棚を造り、戸をめる時自ずから栓下りて開けざるごとくして中に食物を置き、猴多き山に持ち往きて人まずその内に入って食物を食い出づるを、猴望み見て人の居ざるを待って入って食物にく、不器用なる猴は食う時戸を閉づる事を知らず、故に人来ればたちまち逃れて山中に走る、器用なるは戸棚に入り食せんとする時、人の来るをおもんぱかりわざと戸を閉づ。

    兼ねてその機関からくりを作りたるもの故すなわち栓ありてひらけず、ついに人に捕えらると、ここを以て智不智を撰ぶとぞ。いわゆる猴智慧なるかなと見ゆ。未熟の智慧を振うて失策を取るを猴智慧といい始めたらしい。されば仏経にしばしば猴を愚物とし、『百喩経』下に猴大人に打たれ奈何いかんともする能わずかえって小児をうらむとあり。また猴が一粒の豆を落せるを拾わんとてことごとく手中の豆を捨て鶏鴨に食われた話を出す。

    猴は毎々そうするか否を知らぬが、予かつて庭に遊ぶ蟹に一片の香の物を投ぐると走り寄りて右のはさみでこれを執る。また一片を投ぐると左の螫で執る。更に一片を投ぐると右の手に持てるを捨ててこれを執り、今一つ投ぐると左手に挟んだのを捨てて新来の一片を執る。幾度も投げ与うるに毎度かくのごとくし、ついに最後の二片を持ちて穴に入ったそのまままた出て前来の諸片を採らず、全く忘れしまったようだった。最後の二片で満足するほどなら幾度も拾い換えるに及ばぬというところに気付かぬは蟹根性とでも名づくべきか。

    だが世間にこんな根性の人が少なくない。『僧祇律』に群猴月影水に映るを見、月今井に落ちた、世界に月なしとは大変だ助けにゃならぬと評定して、その一疋が樹の枝を捉え、次々の猴が各他の猴の尾を執りて連なり下る重みで枝折れ猴ども一同水に陥った。天神これを見て「なべて世の愚者が衆愚を導びかば、井戸の月救う猴のごと滅ぶ」コラサイと唄うたとづ(英訳シーフネル『西蔵チベット譚』三五三頁)。

    これに謝霊運しゃれいうん『名山記』に〈※(「けものへん+爰」、第3水準1-87-78)※(「けものへん+柔」、第4水準2-80-44)えんどう下り飲み百臂相つらなる〉とあるを調合して、和漢に多き猿猴月を捉えんとする図が出来たのであろう。『法句譬喩経』三にいわく、愚なる猴王五百猴を率いて大海辺に至り、風があわを吹きあつめて高さ数百丈となるを見、海中に雪山あり、そのうち快楽、甘果ほしいままに口にすと聞いたが今日始めて見る、われまず往き視て果して楽しくば還らじ、楽しからずば来って汝らに告ぐべしとて、聚沫しゅうまつ中に跳り込んで死んだと知らぬ猿ども、これはよほど楽しい所ゆえ留まって還らずと合点し、一々飛び入りて溺死したと。

    熱地の猴故雪山を楽土と心得たのだ。猿が猴智慧でその身をうしのうた例は支那にもあり。『北史』に高昂の母が児を浴せしめんと沸かした湯を婢が置き去った後、猿が綱をはずし児をてい中に投じただれ死なしめたので、母が薪を村外に積ましめ、その婢と猿を焚殺したとある(『類函』四三一)。

     一九〇八年板英国科学士会員ペッチグリウの『造化の意匠』巻二に、猴の心性について汎論した一章あって煩と簡との中を得居るからその大略を述べよう。すなわち猴類は人間に実用された事少しもなく、いまだかつて木をき、水を汲むなど、その開進に必要なる何らの役目を務めず、ただ時々飼われて娯楽の具に備わるの一途あるのみ。

    それすら本性不実で悪戯いたずらを好み、しばしば人にみ付く故十分愛玩するにえず。されどその心性人に類せる点多きは真に驚嘆すべし、ダーウィンは猴の情誼厚きをめ、あるアメリカの猴がその子を苦しむる蠅を払うに苦辛し、手長猿が水流中に子の顔を洗うを例示し、北アフリカの某々種の猴どもの牝はその子を喪うごとに必ず憂死し、猴の孤児は他の牝牡の猴必ずこれを養い取って愛撫すといった。

    ジョンソン説に、手長猿は同類甚だ相愛すれど一たび死ねば構わぬに反し、氏が銃殺した猩々の屍を他の猩々どもが運び去ったと。ある人『ネーチュル』雑誌へ出せしは、その園中に放ち飼える手長猿の一牡児、木から堕ちて腕節外れると、他の猿一同厚く世話焼く、特に篤志だったはその児に何の縁なき一老牝で、毎日くれた甘蕉実バナナを自ら食わずにまず病猿に薦めた。一つの猿が怖れ、痛み、もしくは憂いてさけぶ時は一同走り往きてこれを抱え慰めたと。

    キャプテーン・クローかつて航海せし船に種も大きさも異なる数猴を積む、中に一種小さくて温良に、人に愛さるるも附け上がらずく嬉戯するものありて、衆猴これを一家の秘蔵子のごとく愛したが、一朝この小猴病み付いてより衆猴以前に倍してこれを愛し、競うてこれを慰むるにつとめ、各うまい物をぬすんで少しも自ら味わわず病猴に与え、またしずかにこれを抱いて自分らの胸にかかえ、母が子に対するごとく叫んだが、小猴は病悩に耐えず、悲しんで予の顔を眺め、予に援苦を求むるふりして嬰児のように鳴いた。かくて人も猴も出来る限り介抱に手を尽したが養生相叶わず、久しからぬ内に小猴は死んだという。

    またサー・ゼームス・マルクムも東インド産の二猴を伴れて航海中、一猴過って海に陥るを救わんとて他の一猴その身にからもうた縄を投げたが短くて及ばず、水夫が長い縄を投げると今落ちた猴たちまちこれを執え引き揚げられた。ジョンソン大尉インドバハール地方で猴群におどろかされてその馬騒ぎのがれし時、鉄砲を持ち出して短距離から一猴をてしに、即時予に飛び掛かるごとく樹の最下枝に走り降り、たちまち止って血をあびたる場所を探りつまんで予に示した。その状今に至って眼前にあり、爾来また猴を射った事なし、予幕中に入りて一行にこの事を語りおわらぬ内、厩卒来りてかの猴死んだと告ぐ、因ってしかばねを求めしむるに他の猴ども、その屍を持ち去って一疋も残らずと

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    「猴に関する伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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