猪に関する民俗と伝説(その16)

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     さて、予帰朝後この田辺の地に 僑居きょうきょし、毎度高橋入道討ち死にの話を面白く語った。その頃大阪堀江に写真を営業する田辺人方へ紀州の人が上るごとに集まり、くだんの話に拠ってこれから討ち死にに出掛けようじゃないかなどいう。それより弘まって紀州人の知った芸妓はもとより、紀の庄店などでも、討ち死にといえば底叩きの大散財と分らぬ者なしと聞いたは早二十年ばかりの昔で、今はどうなったか知らぬ。

    しかるにその後『改定史籍集覧』二五所収、慶長十八年頃書かれたところといわるる『寒川さむかわ入道筆記』を見るに、「とにかくに、右のようなる事どもをきけば気の毒じゃ、聞かぬがよい、かように治まりたる御代には太刀をさやに納め弓をば袋に入れて置いても、その身その身の数寄すき数寄すきに随い日を暮し夜を明かし慰むべき事じゃ、千も万も入らず、当時無敵は若衆様と腎を働かし討ち死にしょう事じゃ、しからざれば若衆の御袋様と(以下欠文)」とあり。

    思うさま楽しむを討ち死にといったので高橋入道の言と同義だ。しかし入道はこの『記』を読んで後に言い出したのでは決してない。要は期せずして偶合したので、久しい歳月の間に、こんな事は多くあろう(宝永五年板『風流門出加増蔵』(『西鶴置土産』の剽窃物)三ノ二、伊勢町の大盃といえる大尽云々、六十を過ぎて鬢付びんつけたしなみ女郎と討ち死にと極めて銀使いける云々)。

     安永五年板、永井堂亀友きゆうの『世間仲人気質』一に「僕もと京師けいしの産、先年他国へ参り夜とともに身の上ばなしを致せしが、物語りの続きに、その時は私も、ちゃっちゃむちゃくでござりました、といいたれば、他国人が大いに笑いちゃっちゃむちゃくとは何の事じゃ、そのような詞が京にもあるか、ただしは亀友の一作か、これは可笑おかしい、これは珍しやと申して一同一座の興を催しましたが、その国でそれからこの俗言が流行はやりますと年始状の尚々書なおなおがきに申して上せましたくらい、さて当年で四十九年以前、三月上旬の頃兵庫浦で目の内五尺八寸という鯛がとれて大阪のざこへ出した時、問屋の若い者きおい仲間人これを求め、六人掛かりで料理せしが、中に一人この大鯛のあらの料理を受け取り、頭を切りこなす時、魚のえらを離しさまに手の小指を少し怪我けがしけるが痛みは苦にせねど何がな口合くちあいがいいたさに南無三なむさん、手を鯛のえらでいわしたア痛い、これはえらいたい、さてもえらい鯛じゃといったが、この鯛の大きな評判に連れてこの口合がざこ場中になり、それから大きな物さえ見るとこれはえらい、さてもえらい物じゃといい出して大阪中の噂になり、のち日本国で今はえらいという俗言が一つ出来しゅったいせし由、しかれば古き喩えはいずれも故実のある事、今様の俗言も何なりとよりどころのある事ならん云々」と見える。

    この本を出版と同年に書いたと見て繰り合すと安永五年より四十九年前は享保十二年に当る。その年より前に果してえらいてふ語がなかったか知らぬが、魚のえらからエライという形容詞を転成するような事も世間にないと限らず。殊に京の人をまねて田舎にチャッチャムチャクなる語がはやり出したとはありそうな事で、高橋入道の討ち死にがこの辺で大抵の人に通用すると同例だから、俗語の根源と伝播は当身確かな記録があるにあらざれば正しく説きあてる事すこぶる難い。これを強いて解きに掛かるより豕がオルガンを奏すてふ俚語におけるごとく、諸説紛々たるも今に※(「二点しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およんでいずれが正解と判断し能わぬ。

     『日本紀』七に日本武尊東征の帰途、つねに水死した弟橘媛おとたちばなひめを忍びたもう。故に碓氷嶺うすひねに登りて東南を望み三たび歎じて吾妻あずまはやといった。爾来東国を吾妻の国というと見える。故浜田健次郎氏か宮崎道三郎博士かの説に、韓語で日出をアチムというから推して本邦上古日出をアツマといったと知れる。したがって日出処の意で東国をアツマノクニといった本義は早く忘却され、強いてこれを解かんとて日本武尊の事をこじつけたとあった。

    『太平記』などに関所として著名な樟葉くすばという地あり。『日本紀』五に彦国葺ひこくにぶく武埴安彦たけはにやすびこを射殺した時、賊軍怖れ走ってくそはかまより漏らしよろいを脱いで逃げたから、甲を脱いだ処を伽和羅かわらといい、屎一件の処を屎褌くそばかまという。今樟葉というは屎褌のあやまりだとあり。

    『播磨風土記』に神功じんぐう皇后韓国よりかえり上りたもう時、舂米女いなつきめ等のくぼを陪従おもとびとくなぎ断ちき、故に陰(くぼ)絶ち田と地名を生じたと出るなども同様の故事附けで多くはあてにならぬが、今日の南洋諸島人と斉しくこれらの解説が生じた頃寄ると触ると屎とかくぼとか言うて面白がりいた証拠になる。同書に手苅てがりの丘は近国の神ここに到り、手で草を刈って食薦すこもす故に名づく、一にいわく、韓人ら始めて来りし時鎌を用ゆるを識らず、ただ手を以て稲を刈る故に手刈村というと。ノルトンの豕と等しく早く既に解説が一定せなんだのだ。

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    「猪に関する民俗と伝説」は『十二支考〈下〉』 (岩波文庫)に所収

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