徳川家康

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  • 徳川家康(とくがわ いえやす)

    徳川家康(1543年〜1616年)。戦国大名・江戸幕府の初代征夷大将軍。
    家康は江戸幕府の始祖として称えられ、今も日光東照宮をはじめ全国に東照大権現(とうしょうだいごんげん)として祀られています。



    徳川家康

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳5)
    秀吉が大阪に城を築いたとき、家康に向かってこの城は誰が攻めても落ちまいと言ったのを、家康はまことに左様と言う。そのとき秀吉はその智を誇るあまり、一度和睦を入れてその間に外堀を埋めたならば難なく落ちるだろうと言った。後年秀頼の世になって、果たしてその通りの手で大阪城は落とされた。人にものを言うときはよくよく心得て言うべきことと見える。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳9)
    普通には船の丸の名を付けるのは征韓役1591年に九鬼嘉隆が作った日本丸を嚆矢とすると思う人が多い。しかし、それより先に1578年、信長九鬼の日本丸を見たことがあり、また1584年家康の清須丸と九鬼の日本丸と戦ったことが『武功雑記』に見える。しかしながら、1468年に成った『戊子入明記』を見ると、当時足利政府から支那に送った船には10艘までみな丸という号を付けている。これらのことはその後、何の書にも見えているが、小生がこれを明言するまでは知らない人が多かった。

    南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳34)
    関ヶ原の戦争で西軍があまりに多勢なので東軍は意気が揚がらず、そのとき板崎出羽守(西軍の大将浮田秀家の従弟兼家老であったが、主を恨むことがあって家康に付いた者で、この戦の後、石見国浜田1万石に封ぜられたが、大阪城が落ちるとき、秀頼の妻を取り出したらその者の妻にやると聞き、取り出したが、秀頼の後家は本多忠刻に惚れその妻となる。出羽守はこれを怒ってこれを奪おうとし、兵を構えようとするのを家臣に弑せられる。

    故福地源一郎氏はこのことを虚談といったが、小生がコックスの『平戸日記』を見ると、コックスは当時江戸にいて、このことを記しているので事実である)が進み出て、西軍など恐るるに足らず、それがし一人いれば勝ち戦受け合いであると言ったのを家康が賞美する。出羽守が出たのち、小姓どもは大いにその大言を笑ったが、家康は、このような際にひとりなりとも味方のために気を吐く者がいれば味方の勇気が増すものである、その者の言葉を笑ってはならない、と叱ったという。


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